プライベート

日本ゴルフ場銅像探訪記〜乾豊彦氏〜

今回から暫くゴルフ場にある銅像、レリーフ方は?
よく目にする事ありませんでしょうか?
大体察しはつくんですよね、其処のゴルフ場に功績があった方であろう。と
しかし実際にどの様な人生を歩まれた方なのか?
暫く飛び飛びにはなりますが、その様な方々の人生をお伝えさせて頂ければと思っております。
先ずは「廣野を見て死ね。」と言われますが、日本代表するゴルフ場、間違いなく廣野GCでしょうね✋はい
其の廣野GC創設者の一人を義父に持ち、戦後の混乱期に廣野GCを逸早くメンバーの元に戻して再開
其れからは単に廣野再興だけでなく、関西ゴルフ界、否、日本ゴルフ界に多大なる貢献をされた方、乾豊彦氏銅像をご紹介させて頂ければと思います。

豊彦氏は1907年(明治40年)に愛知県に生まれます。
元々神戸の方だと思っておられる方々も多いですが、実家は名古屋です。
名古屋の旧家で中部経済界の大物高橋彦次郎氏(名古屋株式取引所理事長・大正海運社長)の七男として生まれ,茶人や美術蒐集家としても名高い父の影響を強く受け育ちます。

愛知一中、名古屋高等商業学校(名古屋大学経済学部)卒業し三井物産に入社、そこで廣野GC創設者の一人である乾新兵衛氏と知り合い一人娘の道子さんと結婚,乾家に入り乾豊彦となります。
義父が早く亡くなり、乾汽船、乾倉庫などの巨大な事業を引き継ぎ辣腕奮います、も終戦。
いや、敗戦ですね、、、敗戦と乱れた世相に打ちひしがれている国民多かったなか、乾豊彦氏は乾汽船はじめとした事業再興、拡大、従業員為,戦後復興ために後ろ振り返る事なく邁進します。
そんな1947年(昭和22年)9月に川崎重工業社長鑄谷正輔氏より
「GHQより廣野GCを農地として解放すべし、クラブハウスを韓国人学校校舎として暫く貸与頂きたい。」
の通達来ている旨を聞きます。豊彦氏は、此処で踏ん張らなければ廣野GCは此の世から消滅してしまう、、と考えて法人会員制を敷き復興資金に苦労するも1948年6月には9ホール、9月には廣野GC理事長に就任し1949年には18ホール営業の難時業を成し遂げました。

その後は日本に廣野有りを世界に知らしめ現在に至ります。
廣野GC内にあるJGAゴルフミュージアム前にも廣野GC中興の祖 乾豊彦氏の銅像ありますが、個人的に好きなのは、氏が設計者上田治氏と現地で自ら陣頭指揮し完成させた小野GC銅像の方が好きですね✨



小野GCのノンビリとした本当のクラブライフとは?
を考えさせられる雰囲気と現実に泉下の豊彦氏もニッコリ笑顔でいらっしゃる事でしょう😄
豊彦氏が孫を見るように可愛がった小野GC、素晴らしいゴルフ場ですよね




変な華美さが全く無く落ち着きこれが「本物」だと私は思います。
ご飯も素朴で安く美味😋








以前はNo.1を囲って視界妨げていた樹木も伐採しましたね、手入れされた黒松,赤松
現在はNo.9右サイド、折角の鴨池に隣接しながらも水面見えなかった丘陵箇所を削っています。

大英断ですよね
兎角日本人は狭い空間に敷居や妨げるモノを作りたがり、結局はゴチャゴチャ感しか生まれない。コレが欧米一流コースとのセンスの大きな「差」だと私は思いますが(全くコースに関係ない樹々を植樹したり・・・クラブハウス内に陳列したり)
現在の小野GC改修担当者方、一度お会いして話をお伺いしたいものです。

縦の糸と横の糸が紡ぐ小野GCはまさに、乾豊彦氏のスピリットを受け継いでおられますよね
話それましたが、日本ゴルフ場銅像探訪記、第一回目は乾豊彦氏でした。
次回もお楽しみに👋



ecc
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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。