皆さま、こんにちはタケシです😄
先日、高知県高知市から室戸岬通り徳島県徳島市まで太平洋に面した国道55号線をドライブした時の旅日記を5週間に渡り毎週土曜日にお届けさせて頂きたいと思います。
現代版 紀貫之(きのつらゆき)の土佐日記ですね
平安時代の貴族で歌人の紀貫之が京より国司(今の県知事かな?)として土佐国(とさのくに)に赴任し4年間の勤め終えて土佐から京の都に帰る55日間の旅日記を行程を仮名文字で綴った作品、それが土佐日記
12月21日に土佐国府(高知県南国市)を出発
↓
1月30日には阿波水門(鳴門海峡)→沼島(南淡路市)
↓
2月1日黒崎の松原(大阪府泉南郡淡輪)
↓
2月6日難波(大阪市難波)
↓
2月16日京に着
この紀行文、当時の風習や考え、交通網知る事が出来る、文学的見地だけでなく他方面からも貴重な意味合いの資料な訳ですが、本日お届けさせて頂きたいのは?
私の大好きな高知城
石垣フェチ、縄張フェチ、城マニアの私、大好きな城ですね
1873年(明治6年)に明治政府より廃城令が出て全国に300以上あった城のほとんどが破却、堀は埋められました。
旧権力、権威の象徴であった城と、不満士族達が兵を立ち上げ城に籠城する事も考えられてからの破却命令でした。
しかし民間買上などから保存された城も全国何城か残ります。
この高知城も江戸時代の姿を辛うじて残す貴重な城の内の一つ
特に天守閣と本丸御殿をセットで残すのはココ、高知城だけ
江戸時代から残る15棟の建築物が国指定重要文化財に
そして高知城正門であり巨大な追手門を見、潜り
土佐藩が輩出した明治の自由民権運動家
板垣退助像を右手に身ながら天守閣と本丸御殿を目指します。
板垣退助、、、軍人であり政治家、しかしこの人物を端的に現す事が出来る2つの事象を✋️
土佐藩上士300石の門閥に生まれ育った退助ですが、幼き時、真冬に自邸門に乳飲み子抱え困窮している女性が物乞いに来ました。門番は追い返そうとしましたが、其れに気づいた退助は姉の箪笥より着物持ち出し、困窮した女性に手渡します。
それに気付いた姉は怒り母に言いつけます。
退助は平然として、我が家にあった豪華な着物は単なる贅沢品の一つ、しかし其の着物であの母親と乳飲み子は助かるかも知れない。
と答えます。
これに母は、民心思い地政行うのは立国の大本、子供ながらに其れが分かっている子は我が家の名を上げるであろう。と
もう一つ。維新の功績により各藩の大名や維新時に活躍した侍、公家などは公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の華族となります。
土佐藩からも藩主の山内家や佐々木高行、後藤象二郎、田中光顕など20名近くの者が華族となりました。
しかし、維新時に土佐藩重臣として軍功功績あった板垣退助ですが、かたくなに授爵を断り続けます。
維新時の一君万民四民平等の理念に反する、少なくとも私は、と。
一度、二度、三度、しかし明治天皇から三度の授爵を断るとは友人の竹内綱からも三顧の礼に反し無礼にあたるの助言も受けて伯爵 板垣退助になりました。
しかしここからです。退助は伯爵は私一代限り、亡くなった後も子孫が特権階級としているのは我慢できない。と一代授爵として、また見事に子孫も伯爵の地位を返上します。
沢山の功績ある板垣退助ですが、この2つの事象からも人柄、生き様、死に様をご理解頂けたかと思います。
そんな板垣退助像を右手に見ながら石段登っていくと
高知城天守閣と本丸御殿に到着
江戸時代とは思えない黒潮をモチーフにした斬新なデザインも🌊
藩主が座る上段からの眺め、華美でなく素朴な造りの中にの拘りと贅沢さ
土佐藩24万石山内の殿様が見てきた景色を今でも見られる事が出来る高知城天守閣と本丸御殿
明治時代の廃城令、大地震火災の天災、高知市内焼け野原になった先の大戦の高知大空襲からも残り現在(いま)に残る高知城✨
最大のパワースポット
間違いない‼️
来週は高知城下の坂本龍馬邸跡を✋️