伊予國一之宮
日本総鎮守
海運武運の神様
其れが、大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)
です。
愛媛県今治市と広島県尾道市を繋ぎ、点在する島々を渡す、しまなみ海道
古くから、瀬戸内海の此の地は「海運」栄え、其処に生きた人々が歴史を紡いで繋いできました。
古来より大陸、九州から文化や物資が東上するにあたり日本海側と瀬戸内を通る海路がありました。
瀬戸内の海は小島や岩礁多く、潮流も速く読みにくい為に難所でした。
しかし、中国地方、九州東北部、四国瀬戸内側から畿内に通ずる大事な誰もが抑えたい場所
そこには古くより、海賊がいました。
有名な村上水軍
能島、因島、来島の三ッの島を拠点とする村上三氏を束ねていたのが、伊予國(現在の愛媛県)守護の河野氏でした。
源平の時代より長く伊予國、瀬戸内で勢力誇った河野氏並びに近隣の水軍、いや海賊
海に従事する人々の強い信仰を受けたのが?
そう
大日本総鎮守大山祇神社
とありますが、此の字を揮毫(きごう)したのは初代内閣総理大臣 伊藤博文です。
伊藤博文の生家は長州藩領の農家の林家でしたが、その遠祖が越智宿禰の後裔である河野氏と家系で言われてきたので(後付けで系図を作成したもの)、明治時代に、遠祖が深く信仰して来た大山祇(おおやまずみ神社に参拝した時に書いたものです。
推定樹齢2600年の大きな楠木が迎えてくれます。
幕末動乱期、戦国時代、室町時代、鎌倉時代、平安時代と何百何千何万何十万もの人の歴史と栄枯盛衰を、この大楠木は静かに見つめ見守ってきました。そして今尚、樹勢衰えず小さな事で悩んだり悔やんだりする、人間を無言で悟す、仏の心の様に佇んでいます。
お釈迦様が生まれたのが、そう紀元前5世紀ごろですから、今から大体2500前
ちょうど此の大楠木と同じ時代ですね・・・
約500年前室町時代に建立された長棟造で平安様式の十七神社を見て本殿へ・・・
本殿は重要文化財で拝殿と同じく1427年に再建され、現在に・・・
当日、中世戦国の世から近隣だけでなく遠方からも海上安全、武運長久祈り数多くの武将が奉納した刀や甲冑、武具を展示する宝物館に行きたかったのですが、コロナ禍為に閉館中でした、残念
かの時宗開祖の一遍上人は伊予國守護の河野氏なので、↑のような貴重なものも、そして
蒙古軍・高麗軍が攻めて来た弘安の役で活躍した河野道有に縁ある楠木も・・・
大山祇神社にいて、深く息を吸い込み目を閉じると、400年、500年、600年、、前の瀬戸内海を縦横無尽に風切り船を操る海の民の息吹を感じます。
そう、そんな海賊、海の民の村上水軍に言われ続けた訓話があります。
「我々は海で生きる者、山の陸の者と契りを結んだら我々は滅びる。」
と
戦国時代末期の村上水軍代表する武将 村上武吉は村上水軍の近代化合理化、生き残りを賭け、合法的勢力を目指し実行しました。
其れは
通行税を徴収する。
しかし、そのことから毛利氏や時の信長、秀吉などの中央政権の渦に巻き込まれ江戸時代には帰農したり、かく大名家に仕えたりするものの、村上水軍は消え去りました、、、
陸の者と仲良くしようとした結果。
そうです、、来島村上氏は唯一豊後玖珠藩主(大分県玖珠郡)一万数千石の小大名として残り明治時代を迎えました。
しかし来島→久留島に名を変え、また海の無い陸地、小さな盆地へ・・
今でも尾道市や今治市で盛んな船舶、海運関係の会社の方々
海上自衛隊方々も必ず参られる大山祇神社
もし読んで頂いている方で、海に関する仕事されておられるなら
是非とも一度は参って頂ければ
伊予國一之宮
日本総鎮守
大山祇神社