仙台、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡
その他の多くの都市も先の大戦でアメリカ軍による無差別空襲受け、罪のない沢山の民間人、そして街並みを失いました。
船場の富と文化極めた大阪中央区道修町(どしょうまち)なども例外なく、辺り一帯焼け野原になりました。
道修町は江戸時代よりオランダや清の薬が大坂に入ってくる時の玄関口でしたので、自然と薬問屋が軒を構えてカノ、武田薬品や塩野義製薬田辺三菱製薬も道修町発祥になります。
現在も沢山の有名な薬品関係会社が本社、西日本での拠点置く場所になっています。
そんな大都会、大阪の高層ビル群なかに、白壁と蔵、大きな屋敷が今に残ります。
それが重要文化財にも指定された
小西家住宅
元は近江、滋賀県から出てきた小西儀助がアルコール販売から化学薬品まで幅広く取り扱い、巨万の富を築いた小西儀助商店本店兼住宅、その場所なんです。
東証一部上場 コニシ株式会社として今に繋がります。
連結決算1213億円の大きな会社ですが、コニシのボンド
3月某日、現当主でコニシ株式会社取締役も勤められる小西哲夫さんに1903年に建てられた屋敷内をご案内頂けるラッキーに恵まれました。
屋敷中庭から高層マンション
茶室や中庭の詳細部分にも今では手に入らない銘木や庭石が使われていて
千家ゆかりの灯籠
庭石も水溜まると北海道の形が自然とでき
中でも興味深かったのが、トイレです
実はこのトイレですが、豊臣秀吉が築いた日本最初の都市型下水である、太閤下水の上に作られたもので
大阪で本格的な水洗便所のハシリとなった?なんです!
流石に新しくなってはいるものの、反対側には宮様などの止んごとなき方が来られた時のみに使用されたトイレも残されていたりして、トイレ文化史を研究されている方がいらっしゃったら、大変興味深いと思います。
神社仏閣は崇敬の対象なので、比較的古いものも残されますが、個人住宅、それも贅を尽くした粋人の豪商が近現代に建てた建築物は殆ど残存しないのが現状です。
何気ない日常の積重ねが歴史であり文化になり、そういう意味では、先の大戦の戦果や阪神淡路大震災をも乗り越え、今に豪商 小西儀助の息吹伝える、小西家住宅は大事に後世に伝えなければならないものだと思いました。
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