当日は急に雷鳴響き、滝のような雨が降り出しワイパーを一番早くしても景色煙るほどでした。
日田市から奥耶馬渓トンネル抜け、しばらく車を走らせると神尾家住宅?看板が見えます。
山国川は鉄砲水で茶色に濁っています
車を駐車スペースに停め、住宅に歩き向かうと、ガッシリした体型の男性がいらっしゃいました。
神尾家の現当主です
自己紹介させて頂き、建物内に案内頂きました
鉄砲水に近く、雨音が激しく
しかし雨のお陰で茹だるような暑さをも吹き飛ばしてくれ、心地よさも感じます
250年経っているとは思えないほどの重厚さと、しなやかさ
当主からの話が歴史的な偶然により、、
この神尾家住宅は会津若松や東北地方の一部に残る曲がり屋、という建築様式で建てられ、内部には東北地方での豪雪の屋根にかかる負荷を分散させるために、屋根から下に降りる縦柱上の接合場所が緩く造られているそうです。
豪雪の負荷が屋根にかかると、密着しますが、平素は緩い。
当主は仰います
「当然、大分県のこの場所では雪は降らないですが、往時この建物造成に携わったであろう、多くの会津若松よりの土木関係者。九州最古の民家といわれますが、九州では活火山が沢山あったり、断層入組み地震が頻繁に起きます。
結果ですが、地震起きた時に、会津若松地方では雪の負荷を分散させて建物への圧力避ける様式が、ここでは地震からの揺れを誠見事に分散させる様式に様変わりしたんです。先の熊本 大分での地震時もカナリ揺れましたが、壁に一つの亀裂も走ることなく事無きを得ました。」
「まず日田は長崎と並ぶ江戸幕府九州最大の要所でした。
長崎のオランダ商館に入った情報は翻訳され日田などに、そして出先機関である、当家にももたらせました、当家には馬が常時3頭ほどいて、目の前の山は今でこそ木が鬱蒼と茂っていますが、当時は沢山の馬も放牧されていた飼葉場所で、馬を管理する人間もいました。
馬は今でいうレンタカーで、長崎より日田に入った情報などは馬を中津に走らせれば1日で着き、中津藩の速船で大坂には3日程でいけます。今私達が想像するより、当時の情報網と路線はシッカリ機能していたんです」
「幕末になればなるほど、九州諸藩と幕府の間での情報合戦と駆け引きが激しくなってきたので、ここは一民家というより、最初に申しました軍事基地や幕命からの任務遂行場所と考えた方が良い、とお伝えさせて頂いたのも、こういう理由のためなんです。」
当主の話す言葉は、日田や中津などの大分方言ではなく、関東地方の言葉の様に聞こえます。
会津若松より当地に移り住み200年以上たちますが、言葉の違いを感じます。
会津若松は、ここにも生きていました。
「しかし明治の世になり、当家も会津か江戸に戻るという機会失い、今に至ります。歴史の偶然とイタズラすね」
と、ニコッと笑われました。
会津若松藩の護らなければならないものは死んでも、命を賭して護らなければならない。
それこそが会津士魂ともいうべきもの。
この美しくも峻烈な思想だけでなく行動は、会津若松だけでなく遠く九州大分耶馬渓地方にも今なお生きていました。
当主に色々とご案内頂きました。
ありがとうございました!!
来週土曜日は、30キロ先の大分中津市への道のりと、中津をご紹介させて頂きたいと思います。
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