プライベート

肥前名護屋城跡と唐津城

こんにちは、タケシです!
北は函館五稜郭、松前城から南は沖縄本島の城(ぐすく)、戦国時代の山城土塁歩き、陣屋跡含め数えきれない城跡に参りましたが、城マニア、城下町マニア、石垣マニア、歴史マニアを名乗るのに恥ずかしい、名城に行った事が無かったのですが、長年の夢叶い行って参りました✨
それは、肥前名護屋城跡🏯
あの、太閤秀吉が誇大妄想に取り憑かれた愚挙、朝鮮出兵時に、全国の大名に号令かけて朝鮮と明を征服するため、各大名配下の数十万の兵士が、最前線基地となった、肥前名護屋城周りに集結しました。
秀吉の命令断れば、切腹御家取り潰しですからね
肥前、現在の佐賀県の名護屋、秀吉は故郷の尾張那古野と同じ地名のココに運命感じたらしいすけど、秀吉の誇大妄想の為に、要らない血が流れた訳ですよ、、、
その時に天下人、秀吉が約一年滞在して指揮を取った肥前名護屋城跡
今は石垣だけですが、広大な敷地と縄張りには目を見張るものがありました。

本丸、天守閣跡に繋がる、この道を秀吉、家康、伊達政宗、足利義昭、石田三成、数々の武将が通った訳です
苔むした石垣達は、その光景を見ていたんですよ
石垣達に生命あるならば、その見た光景を映写機に投影させて見てみたい
妄想族と言われようが、歴史マニアって、そんなもの


日清都カントリークラブ

天守閣跡に繋がる道を、一歩一歩ゆっくり歩いていきます

豪華絢爛な本丸と五層の天守閣が約430年前にあった訳ですよ

故郷を跡にして朝鮮に渡った兵士
幾百もの大船団が渡海した大海原を見て、しばしボーっとしました。30分ほどボーっとしていましたでしょうか?
全国から、全ての主だった武将が渡海する兵士と共に陣屋を築きました。
名前を見ると

家康や政宗

そして、私が注目したのは?

室町幕府最後の将軍 足利義昭も着陣しているんですよね
よく調べてみると、1592年文禄の役時に、後陽成天皇の見送りを得て、秀吉たっての願いで、足利義昭は秀吉と共に、京の都を出発してココまで来たんです。
天皇の見送りを得て、前将軍源氏の長であった足利義昭と一緒に、何処の馬の骨とも分からない出自の秀吉が権威付けでの出陣
今の時代も同じですね

2時間ほど、いたのかな?
肥前名護屋城跡を後にして向かうは、秀吉亡き後、破却され、石垣や木材は唐津城築城に使用されたりしました。
明治に破却されますが、城下町としての体裁、雰囲気を色濃く残す唐津城跡と、私が日本イチ好きなアングルを(笑)

大規模な、治水対策、安全対策の名の下に護岸工事してセンスないコンクリートブロックに覆われ尽くされている日本の河川、国土
安全対策を否定しているのではありません。
センスない土建屋、政治屋が、風光明媚な日の本の国をメチャクチャにして来たから、またそれに違和感、声を上げなさ過ぎる日本人もどうかと思いますがね
話逸れましたが、唐津城の対岸からの景色、私が城を見る日本イチ好きなアングルかもしれません

自然の海岸線の美しさ✨
そして、すぐ横には約6㌔に渡る?

秀吉が見た時と変わらぬ景色が見られます✨
日本三大松原である、虹の松原があります
初代唐津城城主である、寺沢広高が松を植樹し始めたのですが、広高は配下の者や藩領の者に
「この松原に私が気に入って大事にしている、松が7本ある。」
と伝えました。
どれがソノ松かを言わずに、、、
完璧なる人身掌握術、マキャベリスト、マネジメントですね
誰も恐れ伐採なんて出来やしない
肥前名護屋城跡には、太閤秀吉の成り上がりの極みがありました、しかしその先には一般兵士の苦しみ、朝鮮民衆の血があります。
しかし、残酷かもしれませんが、0と100で割り切れないのも歴史です。
何故なら、全てを経て現在が成り立っているから、、、
肥前名護屋城跡、唐津城跡
楽しい時間を過ごさせて頂きました。


ecc
ABOUT ME
時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。