プライベート

日本ゴルフ場銅像探訪記〜寺田甚吉氏〜

お久しぶりです。
今回は城陽カントリー倶楽部を設立、開場に導いた中心人物、寺田甚吉氏にスポットを当てたいと思います。
1896年(明治29年)12月21日に寺田財閥・南寺田家の長男として生を受けます。
父、甚与茂は和泉銀行、和泉貯蓄銀行、岸和田紡績などの頭取,社長を務め寺田合名会社のトップとしてあり続けました。
その長子の甚吉氏は慶應義塾に学び寺田合名会社を父より継ぎ、発展させます。
和泉銀行頭取
南海鉄道
岸和田紡績(ユニチカ)
現在のソフトバンクホークスの源泉になる南海軍オーナーも務められました。
明治生まれの財界人でゴルフ場を造られた方は、川奈GCの大倉喜七郎男爵粋をはじめ粋で知的でエネルギー溢れる方々がいらっしゃいました。
甚吉氏もそうですよね
先出の通り、城陽カントリー倶楽部を設立、開場に導く中心人物でしたが、昭和12年には大阪GC淡輪コースも廣野GCの高畑誠一氏など仲間数人で開場に導いておられます。
そんな寺田甚吉氏ですが、城陽カントリー倶楽部を設立時に描いたのが、廣野GC
廣野GCクラブハウス設計と同じ,建築家渡辺節(わたなべ せつ)氏が担当されました。
今に残る、神戸の商船三井ビルなども雰囲気ありますよね✨

クラブハウスは渡辺節氏
コース設計されたのは佐藤儀一氏
そう、廣野GCクラブハウス内のクラブチャンピオンズボード12連覇、グリーンは四畳半あれば良いと言われた素晴らしいプレーヤーでもあられた、あの方です✨


日清都カントリークラブ

そう、寺田甚吉氏の構想には常に廣野GCがあったのかもしれません。
それは、姿形だけでなく、クラブライフの在り方としても・・・
城陽カントリー倶楽部のグリーンの造り、バンカー形状、配置は廣野を彷彿させますよね、自然の山の稜線に溶け込む荒々しさ
そう、城陽カントリー倶楽部でキャディ歴34年の細野さん(素晴らしいキャディでした)が教えてくれました。
「私はお会いした事無いのですが、寺田さんが大好きな木だったので、城陽には沢山植えられているんです。」

ナンキンハゼでした。
秋には素晴らしい紅葉を魅せます
新緑も美しいですが、ナンキンハゼは秋の散りゆく前の紅葉が非常に美しいですよね
そう、城陽カントリー倶楽部は名門と呼ばれています。
100%同意です。何故なら、歴史と伝統があるから、大事にしてきたからです。
縦の糸は歴史,横の糸は伝統です。
歴史は時間経てば平等に加算されますが、伝統は横の糸で紡いで行かなければならないものです。
この縦の糸と横の糸が紡がれ続かれているコースを名門コースと人は呼びます。
決して自分で自分を名門コースとは定義しません。
そして歴史と伝統ある城陽カントリー倶楽部ですが、40年以上に渡り,所属されておられるのが山本善隆プロです。
ツアー通算17勝の日本代表するツアープロですが、父君もプロゴルファーでらして、研修生時代より城陽で研鑽積み、日本を代表する美しいスィングと言われる選手になられました。
当日、城陽カントリー倶楽部にお邪魔させて頂いた時に3年ぶりにお会いさせて頂きました。
私自信、1996年,97年と色々お世話になった方です。
23歳ほどの青二才を名古屋の今池にあった牛亭と言う高級肉料理屋に連れて行って頂いた、、タン刺し美味かったなぁ〜、中日クラウンズでは、サラリーマンは朝から夕まで働いてるやろ?プロゴルファーは好きな事させてもうてるから早朝から夕方までおらなアカンのや、、バンカー練習場で仰っられた言葉を忘れておりません。

城陽カントリー倶楽部を設立、開場に導かれた寺田甚吉氏、実は山本善隆プロ結婚式で倒れられ、そのまま病院へ、暫くして逝去されました。
山本プロは、本当にお世話になったよ、上手くなれ強くなれ!と応援してくれた。と
過去と現在が繋がっています。
それが城陽カントリー倶楽部です。

泉下の甚吉翁は、今日も笑顔で来場されるプレーヤーを見守って下さっています。


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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。