2022年の日本シニアオープンが開催されたコースはタラオCCでした⛳️
漢字で記すと「多羅尾」と表記します。
歴史マニアにとり、「多羅尾」の地名と山を越えた街、伊賀上野は身震いするほど魅力的な土地なんです。
先ずは多羅尾と伊賀上野の場所をご確認頂ければと
忍者で有名な伊賀上野🥷
その横の多羅尾(たらお)よりまずは✋
多羅尾は古くより奈良から江戸、東国へ
京都より伊賀、伊勢へ向かう交通の要衝にありました。
地名にもなっている多羅尾の由来は、鎌倉時代の1291年に此の地は五摂家筆頭 近衛家の治める荘園でした。
左大臣を辞した近衞家基と子の経平は多羅尾に隠遁、隠居生活を始めました。
その時に土地の女性と経平の間に生まれた子が、中世から明治時代迎えるまで武家として多羅尾の地を治めた多羅尾家の祖先にあたります。
多羅尾の地、大広寺には
此の地に隠遁した近衛家三代の墓と
多羅尾家の墓、小堀遠州より造られた小ぶりながらピリッとする庭が今に残ります。
そう✋
室町時代には武家として家名を高めて行きますが所詮田舎の豪族止まり
しかし、豊臣秀次側室に多羅尾家の姫が入った事により八万石の大名にまで躍進する時期がありました。
此の儘、多羅尾家は大名家として日本の中枢に入り生き残れりか?でしたが、ご存じの通り、豊臣秀吉には実子、秀頼が生まれ、秀次は秀吉より在らぬ罪を着せられて一族一等厳しく断罪されます。
多羅尾家もトバッチリくらい、八万石の大名から無職へ
栄枯盛衰は世の常とはいえ、辛いモノがあったでしょうね
そんな時でも、捨てる神あれば拾う神ありと申します。
徳川家康が多羅尾家に救いの手を差し伸べます
何故か?
皆様、「神君伊賀越え」をご存じでしょうか?
1582年6月2日に本能寺の変で織田信長は亡くなります。
此の時、同盟者の徳川家康は信長より饗応を受けて京都や堺の街を謂わば、観光していました。
京の都、滋賀からは明智光秀軍勢いて地元の三河に戻れません。
その時、落武者狩りに会うのを覚悟で堺から宇治田原、多羅尾の地を抜け海側の伊勢白子まで山道を進みました。
その時に配下の武士を家康が地侍に落武者狩りに会わない様に守り、無事送り届けたのが多羅尾光雅と其の父
家康は此の絶体絶命のピンチを救ってくれた多羅尾家に感謝の気持ちを忘れずに、1591年家康より甲賀信楽に3500石もの所領を与えられます。
江戸時代には江戸幕府の直轄地を預かる代官として、旗本として、多羅尾代官所構え大いに栄えました✨
タラオCCより車で約10分所、狭隘な猫の額程の土地、三日月状の土地に石垣築かれ1867年まで多羅尾代官所が在りました。
明治30年代に撮られた写真に幕末から明治期の多羅尾家当主が写ります
今年、日本シニアオープン🇯🇵が開催されたタラオCC
多羅尾の地は歴史マニアにとり、コリャたまらん土地でした。
多羅尾代官所跡地前には澄んだ小川が流れていました。