皆さまご存知か、日本人なら必ず一度は耳にした事がある
「赤穂浪士四十七士」
「忠臣蔵」の名の方が馴染み深いかもしれませんね
正月のテレビ番組、時代劇や映画でも昔より何回何十何百も色々な役者方のバージョンありますよね
そう、この話の内容は簡単に説明すると?
播州赤穂の大名浅野内匠頭長矩(ながのり)が江戸城にての朝廷からの使節饗応役を任じられ、幕府武家式饗応役を主に担当していた、足利家の流れ引く名門、高家旗本 吉良上野介義央(よしなか)より色々な指導受けていたものの、何らかの確執が生まれて元禄14年(1701年)2月4日に江戸城内松の大廊下にて(城内で刀を抜くのは御法度なのに)浅野内匠頭がキレて吉良上野介を切りつけた史実の事件
そして播州、今の兵庫県赤穂市の浅野家はお取潰しに、一方の高家旗本吉良家はお咎め受けず存続と相成り、浅野内匠頭の家来達は家老であった大石内蔵助を中心に亡き殿(浅野内匠頭長矩)の無念を晴らすべく吉良家や幕府に悟られないように吉良上野介周りを細かに観察して時が来るのを待ちました。
この過程で大石内蔵助の一力通いなども歌舞伎で有名ですよね
それが元禄15年(1703年)1月30日、雪の降る本所吉良邸(現在の墨田区両国3丁目)に赤穂浪士四十七士か討ち入り、亡き主君 浅野内匠頭の仇を取り吉良上野介の首を列の先頭に掲げて高輪の泉岳寺まで、、浅野内匠頭墓前に報告し、が大体の忠臣蔵、赤穂浪士四十七士の内容です。
しかし、仕える主君、仲間、家族との葛藤から四十七士と思いを同じにするも本懐達成する前に自ら自刃、命をたった侍がいます。
その侍の名は萱野三平(かやのさんぺい)
本当は四十八士だった・・・
本当は四十八士だった・・・
大阪府箕面市の萱野一帯を鎌倉時代より治める土豪、その家に生まれたのが今回の主人公 萱野三平
父は旗本大島家の家臣となり自宅近くの大島家領地を管轄する代官となり、三男坊の三平は他の武家、侍でもある様に他家に仕官、此の仕官先が播州浅野家でした。
父は旗本大島家の家臣となり自宅近くの大島家領地を管轄する代官となり、三男坊の三平は他の武家、侍でもある様に他家に仕官、此の仕官先が播州浅野家でした。
浅野家江戸屋敷に勤めていた萱野三平は主君、浅野内匠頭が江戸城内で刃傷事件起こしたのを知ります。将軍徳川綱吉は激怒し浅野内匠頭は即日切腹に
その御家一大事の報、連絡を浅野家知行地の播州赤穂まで知らせに行かなくてはなりませんでした、その重要な担当者が四十七士の内の一人である早水満尭(はやみみつたか)と萱野三平でした。
飛脚で8日かかる江戸〜赤穂を夜も寝ずに早駕籠使い4日で到着します。
途中西国街道沿いにある萱野家、生まれ育った家を通過する時に前日亡くなった実母の葬式にも偶然出会しますが、御家の一大事、、と涙し赤穂に向かった話も残ります。
途中西国街道沿いにある萱野家、生まれ育った家を通過する時に前日亡くなった実母の葬式にも偶然出会しますが、御家の一大事、、と涙し赤穂に向かった話も残ります。
そう、その萱野三平実家が現在にも大阪府箕面市萱野3丁目に残ります。
それからの展開は一番最初に書かせて頂いた内容通りに推移していきます。
しかし三平ほ悩みに悩みます・・・
実家の萱野家は徳川将軍麾下の旗本 大島家に仕える立場、紀州徳川家に仕える親戚もいました。
しかし三平ほ悩みに悩みます・・・
実家の萱野家は徳川将軍麾下の旗本 大島家に仕える立場、紀州徳川家に仕える親戚もいました。
浅野家お取り潰し後に旗本大島家に再仕官したらと父からありましたが、大島家と吉良家は繋がりある間柄
自分自身は浅野内匠頭長矩の家来、内匠頭亡くなり御家再興の希望(のぞみ)もたたれた其の時、同志は吉良上野介を打ち取る為に最後の準備をしています。
三平の意志も当然そちらにありました。
自分自身は浅野内匠頭長矩の家来、内匠頭亡くなり御家再興の希望(のぞみ)もたたれた其の時、同志は吉良上野介を打ち取る為に最後の準備をしています。
三平の意志も当然そちらにありました。
しかし、私自身の本懐を遂げたら実家や親戚にも迷惑がかかる・・・
そう、忠孝を考え大事にして三平が選んだ道は自ら命をたつ事でした。
そう、忠孝を考え大事にして三平が選んだ道は自ら命をたつ事でした。
現在に残る、萱野三平実家、向かって左の部屋で三平は亡き主君の月命日、見事に腹をかっさばき自刃します。
自分を取り立ててくれた浅野家、浅野内匠頭長矩、実家の萱野家、親戚、コレからの身の振り方、吉良上野介を討とうとする同志達、忠孝とは?
自分を取り立ててくれた浅野家、浅野内匠頭長矩、実家の萱野家、親戚、コレからの身の振り方、吉良上野介を討とうとする同志達、忠孝とは?
その結論として此の方法を選んだ三平
近くには三平死後38年経ち、三平の兄、萱野重道の孫 重好と三平の姉の三男が建てた墓が残ります。
近くには三平死後38年経ち、三平の兄、萱野重道の孫 重好と三平の姉の三男が建てた墓が残ります。
「晴れゆくや 日頃心の花曇り」
萱野三平 辞世の句
萱野三平 辞世の句
主君、浅野内匠頭長矩の亡き後、ずっと心のモヤモヤあったが、自分自身が切腹することにより、ようやく心のモヤモヤ無くなり穏やかな気持ちになった、そんな感じでしょうか?
赤穂浪士四十七士でなく、赤穂浪士四十八士
コレが本当だと再認識しました。
コレが本当だと再認識しました。
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