先週からお伝えさせて頂いている西本願寺
近世日本の人々の心の拠り所であっただけでなく、文化的にも安土桃山時代の豪華絢爛重厚な建築物が現在(いま)なお残され目の前で拝観する事が出来る素晴らしい場所でもあります。
私めタケシにとり、日本の歴史を誇りに思い、こよなく愛する者にとっても心の拠り所、聖地と言っても過言ではありません。
数々の重要文化財、国宝が現役の建築物として在る西本願寺
今日は皆さまも本や教科書でも習った?目にした?ことあるかもしれない
「聚楽第(じゅらくだい)」
豊臣秀吉が関白就任した1586年(天正14年)に京都に秀吉個人の城塞兼別宅的意味合いの聚楽第を建築着工します。
7万人とも8万人とも呼ばれる人員により豪華絢爛な聚楽第は僅か6ヶ月で完成します。
豊臣家の本丸、本宅、本社としての大坂城
政治の地、京都に睨み効かせ別宅、営業場所最前線としての伏見城
そして関白就任した秀吉の京都での別宅、別荘としての聚楽第(じゅらくだい)
になります。
聚楽第は豊臣家の跡継ぎ、豊臣政権の継承者として、秀吉の甥である豊臣秀次が後に住み、秀吉は伏見城に移ります。
しかし、秀吉に子供が出来ます。豊臣秀頼です。歳とった時の子供ほど可愛いモノはありません(笑)
次第に秀次の存在が疎ましくなり色々な理由ふっかけて高野山に追放し自害に追い込み妻子数十人全員打首にして秀次の血統をこの世から消し去ります・・・
晩年、秀吉の焦りと恐れ、精神的に少し破綻きたしていた事を立証する愚行ですね
さて✋
住主、秀次失った聚楽第は秀吉の名により破却され、豪華絢爛な建築物はこの世から・・
の筈でした。
しかし、2つだけ聚楽第の遺構と伝えられ現在(いま)に残るのが、大徳寺唐門と?
西本願寺南東にある国宝
「飛雲閣(ひうんかく)」
です。
金閣、銀閣、飛雲閣で京都三名閣
3層からなり左右非対称の見る方向から違う美しさを感じられる飛雲閣
実はコノ飛雲閣こそが聚楽第の遺構ではないかと、、昔より言われてきました。
秀吉の遺構
徳川家より寄進受け、、西本願寺へと
舟入の間
舟で入る、この場所が正式なる玄関
誰しもが頭を下げないと、この建物に入る事出来ません。
当然、頭を下げ入る建物の主人は?
1層目の主室 招賢殿
障子越し、西に背中向く様に造られた上段の間
理由は人が通ると分かりやすい様にと警備、防衛上の意味合いから
そして、なるほど💡と納得したのが
上段の間に座る事は恐れ多いので下段の間 上方に座らせて頂きましたが、背中からの陽の光、夕方になれば西陽が上段の間に座る人物の後光の様にさし、眩しく見え、座る人物の神格性にも威厳高めるものにも繋がるように設計されたと・・・
そして1層の主室奥から続く渡り廊下
重要文化財 黄鶴台(おうかくだい)
ここは現在でいう、浴室、サウナなんです🧖♀
蒸し風呂式になっていて、もし万が一時には池に置かれた舟で逃げ延びる事も考えられています
有馬温泉をこよなく愛し、通い滞在した豊臣秀吉
以上のことから推察していっても、この飛雲閣を建てた人物は豊臣秀吉以外に考えられない
と・・
実は昨年コロナ禍の8月に京都御所の南東で幻の城とも言われていた
「京都新城」
の石垣や縄張りが発掘調査され存在が実証されました。
聚楽第破却後、1597年に秀吉の命により建てられた幻の京都新城
周りの公家屋敷や内裏などよりも大規模な石垣と堀で囲まれていた幻の京都新城
秀頼の元服式などもココで行われ、文献にも多々登場した豊臣家の公家としての立場鮮明にした京都新城・・・
しかし秀吉亡くなり、関ヶ原の戦い、豊臣家滅亡し京都新城も
しかし、解体移築された記録と西本願寺 飛雲閣 黄鶴台柱に記されていた墨書 「寛永三年三月より寛永六年八月まで」
により、西本願寺 飛雲閣と黄鶴台は豊臣秀吉最晩年に愛児秀頼と豊臣家の繁栄と存続を願い建てた京都新城から移築された可能性が高いことが
しかしコノ飛雲閣、京都新城にあったのを移築されたのはほぼ間違いないと思われるのですが、それ以前には聚楽第に在ったのでは?
と考えられる学者研究者方もいらっしゃいます
先日修復作業ほぼ終了した、国宝 西本願寺 唐門(からもん)
唐門も京都新城から移築されたのではと
数々の変遷辿りココに在る理由
縁と其の理由(わけ)
そして火災天災免れ現在も見る事が出来る有り難さ
すべて含めて西本願寺に在る理由
素晴らしい時間を過ごさせて頂きました✨
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
来週は、西本願寺にゴルフ場⁉️
をお届けさせて頂きます