プライベート

天草 島原の乱

中学の歴史でも習った
「島原の乱」
1637年に熊本天草地方、長崎島原の百姓一揆がキリシタン天草四郎を総大将に幕府軍と戦い、殲滅させられた戦。この戦を境にキリシタンの信仰心を恐れ幕府はポルトガルを締め出し長崎出島でオランダのみに窓口を絞る鎖国政策を行った。

天草 島原の乱の概要ですが、覚えておられますでしょうか?
少し前になりますが、生で、天草 島原の乱でキリシタンや百姓が何故に勝ち目ない戦をしたのか?
何故、蜂起したのか?
を知りたく天草と島原に行って参りました。

フェリーで熊本新港より対岸の島原港に渡りました。

1時間の船旅⛴
島原に近づくにつれ鮮明に見えてくるのが

雲仙・普賢岳と沢山の尊い命奪った1991年6月3日の大火砕流あとも船上から見る事が出来ました。

島原港に着き、先ず向かったのが

島原城
天守閣や櫓、白壁などは近年再建されていますが、先ず目を見張ったのが、高い堅固で立派な石垣に深い掘でした。

言葉悪いですが、地方の大名に分不相応さを感じました。

収入少ないのに高級車乗り豪邸にすみ、派手に遊び回る感ですね・・・
この立派な城も天草 島原の乱が起きた要因の一つでした。

実石高4万石ぐらいしかないのに10万石ぐらいあるかを見せる、虚勢張るために巨大な城築き、一面白壁で覆う、このとてつもない時間と労役、重税による生活苦で1630年頃の島原藩領の住民は毎日の生活も立ち行かなくなっていました。

それに干ばつ、凶作が追い討ちかけ、年貢納められずに島原藩領の庄屋の妻子が藩により人質としてとられ、見せしめ為に殺害されもしました。

長年の生き地獄の様な藩主 松倉勝家の治世に百姓は一揆を起こします。
そこに対岸の熊本天草地方治めていた唐津藩寺沢家、この地でも度重なる重税とキリシタンが呼応仕合い一揆が起きます。

この地方での一揆軍の首領は天草四郎時貞でした。

まだ少年だった四郎ですが、海を渡り島原地方の一揆軍と合流し37000人もの大軍勢になります。

旧領主の有馬晴信が築いていた、当時は廃城になっていた原城にキリシタン、一揆軍は立て篭もります。

海に面した堅固な城が原城です。

幕府も一揆を早めに鎮めようと向かい戦いますが、弾薬や武器を持ち、信仰心熱く、度重なる領主の過酷なまでの取り立てに団結強くした37000人の一揆軍は幕府一軍を破ることになりました。

そこで幕府の権威関わることから、これまた教科書で習った「知恵伊豆」こと老中 松平信綱が総大将として此の地に参陣します。

一軍時と打ってかわり、肥後熊本細川家、筑前黒田家、肥前鍋島家、柳川立花家、はじめ九州の諸藩計12万もの軍勢が原城取り囲みます。
今に残る原城跡、、、


osakasyoun

幕府へ戦後に一揆軍の痕跡跡形も無くすべしに、石垣も破却され今に其の姿が残ります。

最初は兵糧攻めにかかりますが、幕府権威から1638年2月に総攻撃はじまり、立て篭っていたキリシタン、百姓一揆軍37000人老若男女全員が殺害されました。

たった1人を除き、、、

原城内の牢屋に幕府軍に内通していた疑いで絵師 山田右衛門を除いて・・

一揆軍の御旗
天草四郎時貞の近くに掲げられていた西洋風タッチで描かれた↑の軍旗
山田右衛門描いたものとされ、血痕や銃弾貫通した生々しい跡も見られます。

国の重要文化財として指定されていて天草市立天草キリシタン記念館で見ることが出来ます。

天草 島原の乱最後の戦場となった原城本丸跡には、民家の石垣になっていて近年発掘された天草四郎の墓と銅像がありました。

私は途中のコンビニで購入した赤ワインを大地に撒いてとパンを供えさせて頂きました。亡くなられたキリシタンだけでなく、一揆軍の老若男女、幕府軍武士に手を合わせさせて頂き、十字もきらせて頂きました。

何が正しいか?
時代と立場により違うものです。

どちらが良い悪いでなく・・・
しかし、こうもありました。

島原領民への過酷な年貢取り立てに圧政敷き、天草 島原の乱の原因を作った藩主の松倉勝家は、武士のみに許された切腹でなく罪人と同じく斬首されました。

江戸時代で斬首された大名は松倉勝家唯一人です。

穏やかな海に十字架手にした石像がありました。
現在(いま)から384年前に実際此処で起きたことです。

 


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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。