3月下旬、桜咲く前に大分県を一人旅して参りました。
大分県中南部は古来より「豊後(ぶんご)」と呼ばれていました。
今週来週と大分県豊後地方、海岸部に広がる素晴らしい街をご紹介させて頂ければと思います。
先ずは豊後高田市にある富貴寺(ふきでら)宇治の平等院鳳凰堂、奥州平泉の中尊寺金色堂、
そして富貴寺日本三大阿弥陀堂に数えられ、国宝九州最古の和様建築物
元々は宇佐神宮の大宮司家である宇佐氏の菩提寺、祈願場所として建立されたのですが、
中世からは市井の、地元住人集う寺となり近世を迎えました。
山門前の猫もノンビリ寺風を表していますね
平安時代後期の浄土思想阿弥陀仏信仰興隆期に建立され、約1000年前には本堂内に描かれていた華やかで美しい極楽浄土の絵
本堂内は微かに残る絵に影響与える恐れあるので写真撮影禁止でしたが、宇佐市にある歴史博物館では此の富貴寺(ふきじ)本堂が建立された当時を精密に再建したものが展示されているので見に行って参りました。
中世からは宇佐神宮大宮司家の手から離れ、一般庶民為の寺となり存続します。
現在(いま)と違い、飢饉・疫病・戦などにより儚い人生、辛く苦しい生活送る日が多かったと思います。
そんな庶民が唯一すがれ希望に生きる糧は何だったか?
と聞かれたら死後に待っている苦しみの無い極楽浄土での生活を思い現世を生きることでした。
戦国時代には豊後から九州統一狙うクリスチャン武将 大友宗麟(そうりん)が此の地を治めました。
クリスチャンであった宗麟は数々の寺院や神社を焼討ち破却します。
宇佐神宮も焼討されました。しかし最近の研究では武士化していて歯向かった寺院神社勢力には大軍を送り併呑していますが、平和的な神社寺院には今まで通りの在り方を認めています。
富貴寺、、、最初は大権力者であった宇佐神宮大宮司家為の氏寺として建立されました。
しかし時代経て村の、農民の、市井の人々の為の寺に生まれ変わり在りました。
だからこそ宗麟も攻撃、焼討しませんでした。
色々と考えさせられます。