皆さま、新年明けましておめでとうございます🌅
昨年から未曾有な事象により大変な事になってしまいました。
しかし、私たち日本人は幾多の困難を乗り越え、今日の平和で繁栄する国をつくって来ました。
これは政治家や官僚、大企業が作り上げたのではありません。
私たち日本人一人一人が汗水垂らして築き上げたものです。
私たち日本人のDNAには世界中のより良い優れたものは取り入れて咀嚼し消化出来る能力があります。
そして今回の災いも、まず亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、其の方々分まで強く生きて素晴らしい日本國にしなければ、、
そう、強い日本人ならぜったいに!
長々となりましたが、本年も宜しくお願い申し上げます🙇♂️
さて、新年一回目の歴史マニア方々にお届けさせて頂くのは、昨年からの続きである、四国の歴史一人旅
今週は最終回で徳島市を
徳島市と云えば、やはり
徳島城跡に行かなければ城マニアのタケシの名が廃ります。
阿波国蜂須賀(はちすか)藩25万7千石、阿波国(徳島県)・淡路国(淡路島)二国を治める大藩でしたが、家祖は有名な
蜂須賀小六正勝
矢作川にかかる橋の上で出世前の秀吉と出会う、野盗の親分として描かれた江戸時代の講談のイメージが強いのですが、実際に蜂須賀家は美濃(岐阜県)や尾張(愛知県西部)にいた土豪でした。
家の初代が野盗、盗賊の首領として書かれた江戸時代の講談本のイメージ払拭するのに明治時代に華族、侯爵となった蜂須賀家は歴史学者雇い自分の先祖が盗賊出なかった証明する為に必死になり、本まで刊行します。
しかし、こんな話も✋
ある日、皇居宮中にて明治天皇に拝謁するために応接室にいた蜂須賀侯爵、そこにあったのが菊の御紋入りの紙タバコ
蜂須賀侯爵は一本ポケットに、、失敬したところ
明治天皇お出ましになり、紙タバコ一本無くなったのに気づかれ
「蜂須賀、先祖の血は争えんの〜」
と仰られた、明治大帝のユーモアだったと思うのですが、蜂須賀侯爵が先祖が盗賊でなかった事を証明する本を刊行したのも、このような事があったからかもしれませんね(笑)
江戸時代には藍の独占図り、石高の倍近い40数万石の実収入あった豊かな藩でした。
其の様な豊かではありましたが、豪勢な縄張り建築物を城には持込みませんでした。
薩摩藩にも共通する「実」を取る賢明な藩政だったと思います。
今は石垣残るだけの徳島城跡
徳島青石の美しい石垣があります。
徳島城内にある徳島城博物館にも行って参りました。
ちょうど、四国遍路と徳島藩
展示物あったので、学芸員方に一時間お付き合い頂き色々教えていただきました。
学芸員方が仰って居られたのが、日本で唯一国宝が無い県は二県あるのですが、徳島県もなんです、、と悲しそうに。
先の大戦では徳島市の町は90%が米軍の空襲で消失したくさんの貴重な文化財、沢山の方々が亡くなりました。と
ただ、蜂須賀家の現当主は蜂須賀正子さんという昭和16年生まれの方なのですが、その現当主、個人蔵のモノが国宝指定を受けるかも?とも仰っておられました。
因みに蜂須賀正子さん、アメリカ在住で先出の学芸員方が頻繁にメール遣り取りしていて蜂須賀家と徳島県との窓口になっておられます。
やはり、歴史的遺産が少ないというのは、個人的に寂しく思うのですが、其の夜、徳島市内繁華街で一人食事を終え宿泊先まで少し長いアーケードを歩き帰りました。
20時とはいえ、殆ど閉じられた商店街
人気の少ない大通り
そこに戦前の戦災で焼かれる前の徳島の写真がありました。
何だか、すごく切なくて寂しくなりホテルに帰ったのだけが記憶にあります。
今回、四国は松山市、大洲市、しまなみ海道、徳島市を一人歴史旅して思ったのは、箱もの立てて道路を新しく敷設しても全く魅力にも集客にもならない。
最初は良くても数年で飽きられ其れがまた後世の負担になる、、という日本の地方都市「あるある」でした。観光資源の掘り起こし、活用、発信
そんな中で、毒されていない大洲市の観光資源活用法は非常に嬉しく思いましたし、少々金額高くても、お金を払いたい!と感じさせるモノがありました。
こんな時代だからこそ、何が必要で何が要らないのか?
を、センスと責任ない役所や政治屋に任せず、その地の方々が考え行動していかなければならないのでは?
と思いました。