関白太政大臣豊臣秀吉
島津家が服従し九州平定
この時点で、ほぼ天下統一していましたが東国基盤にし勢力誇る北条家だけが天下人秀吉に玉虫色の返事を返信するだけで、静かなる抵抗を続けていました。
色々な書状から見ると、北条家と他の関東の武将との領地争いなどを含め、秀吉には穏便に済まそうと考えていたと思われます
戦わずして勝つ。
家康とも、そうでした。関東平野をほぼ手中に10万の兵を動員出来る北条家のチカラ
難攻不落の小田原城を拠点に初代北条早雲、二代目北条氏綱が築き上げた北条家と領民の固い絆
それに付随する東国、関東平野での絶対的権力者
出来れば、戦わずして天下統一を成し遂げる
秀吉の思いとは正反対の流れになりました。
関白太政大臣豊臣秀吉に逆らうことは天皇に盾をつくことと同じです。
しかし、関東の雄 四代目北条氏政 五代目北条氏直は戦う事を選びました。
私が思うに、勝てるかも?の根拠となったであろうモノが
今に残る石垣などは江戸時代の物ですが、今より何倍もの規模で空堀、土塁などで城や街並みを全て囲んだ約9キロもの「総構え」の城郭でした。
かって上杉謙信率いる大軍押し寄せるも蟻の子一匹城内に入れなかった入れなかった事が、より難攻不落 小田原城の神格化に繋がり、大坂の陣で滅亡した豊臣家を思い出させます。
秀吉は20万超える大軍で小田原城を取り囲みます。
1590年、天正18年2月には逆に海から山から川沿いから全て籠城する北条方から逃げ出せないほどの包囲網を秀吉は築きます。
籠城する北条方の兵は思ったでしょうね
この戦勝ち目なし、、、と
籠城か出撃か?
徹底抗戦か降伏か?
城内で激しい議論がありました、も結論出ませんでした。
そこから古事成語にある
なかなか結論やすべき答えが出ない会議や議論のことを
「小田原評定(おだわらひょうじょう)」
が生まれました。
しかし、難攻不落の小田原城で徹底抗戦すれば、秀吉方も兵糧尽きて撤退始めるのではないか?
北条氏政、氏直親子はじめ兵も思っていたかもしれません。
しょせん田舎大名の北条、秀吉自身が兵農分離進め物流物資のエキスパートであることを知らない、また其の概念さえ無かった所に悲しさを感じます。
小田原城開城降伏に進んで行くのですが、決定的になったのが?
小田原城天守閣から西の方角、箱根方向みると小高い独立した山があり、見下ろされています。
其の山の名は石垣山
そうです、関白太政大臣豊臣秀吉は、ここに堅固な石垣の城と白亜の天守閣築き上げ小田原方を威圧しました。
俗に言う
石垣山一夜城
一夜にして築かれ出現した城に小田原方は戦意喪失し降伏したと言われていますが、秀吉着陣する数ヶ月前から黒田官兵衛指揮の元に城築に取り掛かっていました。
今でも、石垣山一夜城跡に堅固な石垣が見られます。
秀吉自身が見下ろした景色は・・・
ここに関東の雄、後北条氏五代目は終わりました。
二代目氏綱が作製し五代目氏直まで使用された北条家当主の印判、簡単に言えば決済時の承認印があります。
虎が描かれ
禄寿応穏(ろくじゅおうおん)と彫られています。
意味は
領民の禄(ざいさん)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし
領民の幸せの上に北条家の繁栄があることを宣誓した感ある文言ですが、其の原点忘れること無ければ、、
現代にも通ずる事ですね