近江の国、現在の滋賀県は戦国の乱世に於いて数々の戦が繰り広げられた場所でありました。
何故なら?
東国、北国から今日の都に行くには必ず通らなければならない場所が近江国
そして現 滋賀県の六分の一を占める琵琶湖は物流物資運ぶ大動脈でした。
そして豊かな穀倉地帯、比叡山延暦寺、日吉大社といった朝廷にも絶大な権勢及ぼす宗教的権威の根城もあり、近江を抑える者が天下を制す。
と、言われもした要所でした。
後々天下人になる人物と、その人物を死ぬ間際まで支え続けた忠義の武将出会いの場所でもありました・・・
伊吹山麓、滋賀県長浜市にある古刹
観音寺があります。
織田信長より羽柴秀吉、後の豊臣秀吉が初めて大きな領地託され城持ちになり治めた場所がココ長浜でした。
それまでは今浜と呼ばれた場所でしたが、信長より拝領した場所なので、長浜に変えました。
秀吉は人たらし、、と当時から言われていたそうですね
一介の農民に過ぎない秀吉が、信長に採用され能力認められ出世していくに連れ、羽柴秀吉を名乗る様になります。
織田家宿老の丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ名を頂いたんですね、両重臣とも嫌な気持ちはしなかったでしょうね、逆に可愛い健気な奴と思ったことでしょう。
後に其の秀吉の家臣になり、滅ぼされる運命になるとは
さて、初めて所領頂いた近江国長浜
譜代の家臣持たない秀吉は積極的に有能な家臣を近江国で求めます。
そう、先出の伊吹山麓にある観音寺
ココから近くの地侍石田家の次男坊が寺小姓でいました。
その小姓、、
石田三成、其の人です。
佐吉と呼ばれていた時代、観音寺で小姓していました。
そんな折、鷹狩りか領内見廻り途中で羽柴秀吉は喉渇き休憩兼ねて観音寺に立ち寄ります。
今でも1700年代に建立された本堂などが残る観音寺
喉渇き茶を所望した秀吉
大きめの器にヌルい茶を並々と入れ持ってきた寺小姓の佐吉
あっという間に飲み干しおかわり
2杯目は半分ほどに少し熱めの茶を入れ出しました。
そして3杯目も所望すると、小さな碗に熱い茶を入れて秀吉に差し出しました。
喉の渇きと量をタイミング見計らい機転きかせて差し出した寺小姓の佐吉を秀吉はいたく気に入り我が家臣に!
時の住職に談判し家臣に取り立てました。
その時に使用した井戸が?
「三献の茶」
の逸話として、寺小姓の佐吉、後の石田三成の頭の鋭さを物語る逸話として有名な話です。
が?
実はこの話、江戸時代に創られた話で史実ではないらしいんです
石田三成は1600年の関ヶ原の戦いで東軍に捕まり処刑されますが、長男は剃髪し寺に入るのを条件に助命されました。
家康は敵ながら三成を認めていて、あのような主君思いの家臣を私も持ちたい、と語りました。その気持ちから助命したのかもしれません
そう其の助けられた長男の石田重家は父石田三成について、家譜でこう記しています。
18歳の時に播州姫路で羽柴秀吉に初めて仕えた。
と、、
本当は此方が正解なんでしょうね
しかし、豊臣家の繁栄を裏で支えた大黒柱 石田三成
貿易、金山銀山からの莫大な収益
農業改正と検知指導、直轄地の選定と収益を継続して組み上げるシステム、物流物資の構築etc
スーパーテクノクラートですね、石田三成は・・・
司馬遼太郎さんは、三成を評して
私達と同じ現代人の香りがすると言っています。
石田三成、歴史的に其の存在と先見性を見直されても良いのかな?
と感じた近江国長浜探訪でした。