教科書でも習った
長篠の戦い
織田信長・徳川家康連合軍vs武田勝頼
が三河国長篠、現在の愛知県新城市で戦った有名な合戦
この戦いが何故に教科書でも取り上げられているか?それは
1、信長が3,000挺もの火縄銃を使用した近代戦の先駆けとなったから
2、敗れた武田勝頼は滅亡し、信長の天下統一、秀吉、家康の流れを作ったから
だと思いますが、それまでの戦と違い、甲斐の武田の騎馬隊を封じ込めるために信長は馬防柵を戦場に築き、足止めした上で鉄砲・火縄銃を浴びせかけたんですね
今と違い火縄銃は連射出来ませんから、1000人1000挺の火縄銃兵を3列に並べて、撃ったら1番最後列に戻り弾込め、2列目が1列目に出て弾を撃つといった日本で最初の組織だった銃砲部隊編成だったと・・・
最近の実証では、この定説どうも怪しく、あくまでも武田騎馬隊と兵を防いだ、馬防柵が1番効いたのではが、定説になっています。
先日、長篠の戦いの元となった
長篠城跡に行ってまいりました。
この地は愛知県北部にあり、北は山梨や長野への入り口であり、長篠城から南は三河や遠江、愛知県や静岡県西部へと続く要所にあります。
写真でも分かる様に断崖絶壁の川が合流部分に築かれた天然の要塞
当日、その光景を見ようにも夏真っ盛りで、周りは?
木々、雑草蔦が生い茂り全く全景見られずの涙、涙でした。
夏の城跡巡りは藪雑草と蚊に注意ですね
そう。この長篠城城主は、武田信玄亡くなり跡取りの武田勝頼では頼りなく、武田家も滅亡するのでは?から徳川方に寝返った奥平貞昌でした。
武田家に人質として預けていた貞昌妻子は処刑されます。
それくらい覚悟の寝返りだったんです
怒り狂った勝頼は甲斐国、本拠地の山梨県甲府市を出て長篠城に向かいます
総勢15000の兵
かたや篭城する奥平貞昌は奥三河の一土豪、500の兵を持ち戦います。
しかし天然の要塞 長篠城でも多勢に無勢、兵糧蔵を破られ残り4日、5日ばかりの兵糧しか無くなります。
徳川家康に奥平家を賭けた後に引けない貞昌は、梅雨時で増水した城下断崖絶壁の川から岡崎城の徳川家康に応援派兵を要請するために、ある名もなき雑兵を使者として放ちます。
長篠城から岡崎城まで約65キロ、14日午後に無事脱出した雑兵は15日夜無事岡崎城に着き、現状報告し、徳川家康と信長の連合軍は、要所 長篠城を武田勝頼に奪われないために急いでの出陣を約束しました。
家康は、その雑兵にユックリ休む様に言葉をかけますが、落城迫る味方に一時でも早く援軍が既に岡崎城まで来ていることを知らせたいので!
を残し長篠城に戻ります。
しかし行きは良かったものの城周りの幾重にも厳重な囲いに雑兵ほ武田勝頼配下の兵に見つかり捕まりました。
勝頼前に出された雑兵に、勝頼は
「お前が城兵に援軍は来ぬ。諦め開城しろ!と言えば、重臣として取り立て知行地も約束する。」
と、、
雑兵も
「了解致しました。」
川を挟んだ断崖に雑兵は磔になり、城兵、奥平方は固唾を飲んで見まもります。
武田方からの催促に雑兵は大声で叫びました。
「援軍は来る!あと2、3日我慢しろ!」
その瞬間、槍で串刺しにあい雑兵は殺されます。
雑兵の名は
鳥居強右衛門(すねえもん)
強右衛門の言葉に、城兵は沸き返り、その2日後に織田信長・徳川家康連合軍38000の兵を引き連れ近くの設楽ケ原に布陣完了しました。
その戦が長篠の戦いとなり、勝敗はご存知の通りですが、奥平家を家康に賭けた貞昌は家康の長女亀姫を貰い、徳川譜代の重臣として明治時代まで残ります。
また磔にあった鳥居強右衛門
その家は忠義の強右衛門の子孫と言う事から、松平姓を許された奥平貞昌の子孫に代々家老として仕えることになります。
貞昌は信長より、「信」の偏諱を貰い奥平信昌と称して戦国の世から徳川泰平への時代を生き抜いて行きます。
数奇な運命といえば其れ迄ですが、現代では考えられない残酷なまでの人生と使命、決断
蚊に喰われながら雑草生茂る長篠城跡で強く思いました。