想像される殿様、大名は髷を結った衣冠束帯姿を思いだされるかもしれません。
遠い昔の事と・・・
しかし、昭和まで生きた本当の殿様がいたんです。
それも2人!
1人の殿様は、安芸広島藩42万6千石の大大名、浅野家14代の浅野長勲(ながこと)公
昭和20年のアメリカ軍が落とした原子爆弾で沢山の罪なき命と共に広島城も爆心地から980㍍と近距離であったので爆風で天守閣崩れ落ちます。
毛利輝元→福島正則が礎築き、浅野家が発展維持してきた広島の町割りも灰燼に帰しました。
その終戦の昭和20年の8年前まで幕末、明治、大正、昭和の4時代、激動の歴史の中を、しかも表舞台を歩んでこられたのが、この広島城の城主だった浅野長勲(ながこと)公でした。
1842年7月23日に生まれ、浅野宗家に入り幕末には徳川幕府と朝廷の間に入り周旋活動に邁進します。京都の政変では薩摩や長州、土佐などと共に雄藩広島42万石の藩主として、存在意義を出し近隣の岡山、鳥取、徳島の大藩のまとめ役としても明治新政府に貢献して大政奉還後も、明治新政府に仕えます。
明治新政府ではイタリア公使や貴族議員議、起業された各会社や銀行の大口株主、重役として、日本の華やかな表舞台を歩み、1936年2月1日に94歳で亡くなられます。
侯爵 浅野長勲公
大日本帝国の華やかな世界を生き抜いてこられた、昭和まで生きた殿様でした。
そして、もう1人の昭和まで生きた殿様
本当の最後の殿様は
上総国請西藩1万石の大名、林忠崇(ただたか)公
浅野長勲公が大大名で華やかな舞台を歩んできたなら、忠崇公は1万石という、大名でも1番小さな家、1848年(嘉永元年)8月26日に生まれました。
代々松平家、徳川家に仕えてきた旗本、三代ほど前に石高加増され大名の一員となった林家でした。
幕末には、ご自身でも生前昭和13年に語っておられる通り
「薩長のやっていることが腑に落ちなかった。朝廷に早く接したものが上官となり、それ以外のものを賊軍と見做すことに我慢出来なかった、、、」
から、小藩ながら藩主の地位にあるも、自ら脱藩して59人の藩士を率いて薩長軍、新政府軍と戦います。
各地転戦し、仙台へ
奥羽列藩同盟の絆綻び、忠誠尽くした徳川宗家の無事を確認し新政府に降伏します。
投獄され、のち明治5年に放免されるも、旧藩主の大名の地位にあったものの、生活は困窮極め畑耕し、函館に渡り商家の番頭したり、大阪では下級役人としての日々を送りました。
そんな忠崇公でしたが、明治政府の政策転換により明治26年に男爵、授爵されます。
その後は日光東照宮宮司などもされましたが、表舞台に出る事なく娘が嫁いだ岡山に移住します。
亡くなられたのは1941(昭和16年)年1月22日
娘が持ち主のアパートで、94歳の波乱に満ちた人生に幕を閉じます。
辞世の句を求められた時、忠崇公は、こう言いました
「辞世の句は、明治元年に既に詠んでいる。」
と、新政府軍と戦って残した、その時の辞世の句は
真心の
あるかなきかは ほふり出す
腹の血潮の 色にこそ知れ
切腹し腹から出る血の色を見たら真心があるかどうか分かるだろう。の意味だとおもうのですが、凄まじい生き様ですね
昭和16年と云えば、私の父の生まれた年です。
そんなに昔ではありません
しかし、対照的なる2人の最後の殿様が確実に生きた昭和と言う時代が其処にはありました。
どちらの人生が正しいかではありません・・・