先週の続き
尼崎城を守る息子の村次の元へ行った荒木村重
しかし、結果的に本拠地の有岡城は落城、尼崎城も落ち、村重・村次親子は摂津国最後の味方城である
花隈城(はなくまじょう)
に逃げ延びます。
花隈・・・
現在神戸はJR元町駅の上に、石垣のみが当時と全く関連性ありませんが、雰囲気だけ伝えています。
当時は目と鼻の先に海岸線があったことが花隈城古地図で分かります。
花隈城を守っていたのは一族の荒木志摩守元清
織田信長重臣の池田恒興が尼崎方面から、この花隈城目指して押し寄せます。
恒興次男の輝政は生田神社付近に布陣しその他信長軍も花隈城を取り囲みます。
今はコンクリート、アスファルトに覆い尽くされる付近ですが、自然の勾配と地形に往時の城の縄張を想像、、この瞬間マニア心疼きます
結局、花隈城も落城し荒木村重は単身、毛利輝元頼り、尾道に落ち延びます・・・
そして皆さまご存知の本能寺の変が起き、村重は大坂は堺に移り居を構えます。
茶人としても有名であった村重ですが、自分の決断と行動で何百何千もの人の命が奪われ失われた訳です。
そして村重は自ら
道糞(どうふん)
と称しました。
道に落ちている犬の糞と同じくらいの自分自身、という意味だとおもいますが、後年秀吉の話し相手、御伽衆となった、道糞こと荒木村重、秀吉から、そこまで自分を責めることはない、以降
道薫(どうくん)
と改めよと言われます。
晩年も寂しく1586年52歳で亡くなります。
下克上の戦国乱世を生き抜けた荒木村重と言う武将
刹那な其の荒々しい生き様とは全く別の自己肯定感の少なさ、、
地位や名誉、戦い続けるとは?人間って何なんだろう?
400数十年前の人間も現代の人間も根底にあるものは同じなのかもしれませんね
花隈城跡北側にある祠に、荒木志摩守二十代末孫と彫られ寄進された石玉垣がありました。
歴史は過去の点ではありません
現代(いま)に繋がる線なんです。