有岡城を本拠地とする、織田信長家臣の荒木村重は信長に反旗を翻します。
村重部下が石山本願寺の顕如方に兵糧米を横流し、売ったのを信長が知り、激昂し、信長の性格を知る村重は、もはやこれまでと思って、反旗を翻した、、と言われていますが定かではありません。
明智光秀が本能寺の変に至った経緯が定かではないのと同じ。
ただ、一つ言えることは
「織田信長の気性と性格は強烈で、長年の功績も一瞬の逆鱗に触れただけで吹き飛ぶ事があった。」
ここじゃないですかね、、、尽くして尽くして、結果残しても、スィッチ分からない着火点分からない箇所、地雷踏んだ瞬間に全てが吹き飛ぶ、、
現代でも、会社、組織で見られますよね(笑)
有能な武将であった荒木村重を惜しみ、西部方面の上官だった秀吉は、今からでも遅くはない!
と説得に黒田官兵衛を遣わします。
しかし、、かの稀代の軍師 黒田官兵衛をしても、村重の思いを覆えすこと出来ずに、逆に黒田官兵衛は有岡城内の石牢にぶち込まれてしまいます。
劣悪なる石牢の環境に、一年後助けられて出獄できた官兵衛でしたが、足を悪くしてしまい死ぬまで治らず、頭や皮膚にも瘡が出来、しばらく有馬温泉で治療静養したことが残ります。
そう、悲観に暮れる石牢内の官兵衛、唯一の慰めとなったなっのが、牢内から見える藤の木の成長でした。
有岡城後には、それにちなみ
藤の木が植えられています。
官兵衛が幽閉、石牢に入れられていた場所は何処だったのだろう、、当時を推測するのも歴史の楽しみ、マニアの楽しみでもあります。
イオンのショッピングモール近くに藤の木、という地名が今に残るので、、
結局、約10ヶ月籠城して織田信長と戦った荒木村重ですが、息子が守る尼崎城に一人で夜中脱出します。
石山本願寺や毛利方の援軍を催促するための脱出だったと言われていますが、結果として主人(あるじ)失った有岡城は降伏し、信長は見せしめとして、家臣120名婦女子500名全てが処刑され、狭い家屋に閉じ込められ周りを薪で覆い焼死させました。
阿鼻叫喚の凄まじい現場だったと言われます。
その、有岡城が落とされ信長方が城に攻め入ったのが上﨟砦(じょろうとりで)から、今は其処に
墨染寺があり、小屋に閉じ込められ焼き殺された婦女子の菩提弔う塚が設けられています。
城も徹底的に破却されます。
江戸時代には公家の近衛家の所領地となりますが、近年発掘され発見された石垣が数少ない歴史的証人として残ります。
村重は急いで有岡城築城に邁進したんでしょうね、墓石を石垣として使用したりもしています。
井戸跡、建物礎石
400数十年のココでなにがあったか、、この石達は全てを見た歴史の証人でもある訳です。
そう、そしてこんなこともありました、荒木村重配下の、とある武将がいました。
初代は悪四郎宗康といい、今の大阪府茨木市などで勢力誇った土豪、息子は従五位下備前守之満と言うもので、足利義輝、義昭の二代の将軍に仕えます。
今の新大阪駅近辺、摂津国宮原の城主をしていました。
城と言っても、堀と土塁だけの簡素なものだったと思います。
織田信長の家臣である池田恒興の筆頭重臣であった伊木忠次がこの宮原城を攻めます。
城主であった、惣右衛門存之は戦いに利あらず、、として何と我が子を敵ながらアッパレと認めた伊木忠次に預けて開城します。
後に池田恒興の嫡男である輝政は大大名となり、今の姫路城城主となり、備前岡山藩、鳥取藩の礎築きます。
池田家の筆頭重臣であった伊木家も備前虫明(むしあげ)に3万3000石という大名並みの石高貰います。
そう、そして伊木忠次に我が子を預けた家は、伊木家家老として明治維新まで1000石を食み、分家は豊前中津藩の奥平家に仕え明治維新を迎えます。
藩に提出した家の物語
その家が私、タケシの家の歴史なんです。
400数十年前にココで起きた戦いと数奇な武将と家臣達の運命を子孫として感じずには入られません。