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ABC GC・マスターズGC近くで羽柴秀吉と別所長治、壮絶なる三木合戦

NOBUTA GROUP マスターズGCレディース、先週のマイナビABCチャンピオンシップの両ゴルフ場近くには、室町時代後期、いわゆる戦国時代の合戦跡や史跡が沢山あります。

なかでも、マスターズGCから車で約10分所にあるのが三木城跡

古くから兵庫県播磨地方治めた別所氏の居城跡で、中国地方本拠地の毛利家と安土城に本拠地移し勢力拡大する織田家のチカラが拮抗する場所

それが播磨 三木でした。

そんな要所の三木で天正6年(1578年)3月から約2年に渡る戦いがありました。

三木合戦

三木城主別所長治と織田信長の配下で西伸軍責任者の羽柴秀吉、後の豊臣秀吉との戦です。

端的に言えば、現在見られる城の様に石垣や天守閣築かれた城では無いものの、

断崖絶壁、川、急斜面続く天然の要塞の要所要所に砦や櫓築かれ難攻不落と称された三木城でした。

毛利方からの兵糧米搬入などもあり、秀吉は頭を悩ませます。

そこで秀吉は搬入路を遮断すべく、支城や土塁、門を築き三木城を孤立させて、いわゆる

「兵糧攻め」

にします。

1年以上、兵糧米途絶えた別所長治はじめ約7500人の兵、、、

馬やネズミ、最後は土壁のワラを食べたと言われます。

秀吉の徹底した兵糧攻めに飢餓状態の別所方と三木城内

ついに城主の長治は自分の命と引き換えに、部下である兵士の助命を秀吉に願い出て、自刃、切腹します。

赤松氏流れ汲む名家 別所家はここに滅びます。

三木城跡近くには?

雲流寺と別所長治と妻 照子の首塚があります。

長治が切腹前に詠んだ辞世の句

今はただ

うらみもあらじ 諸人の

命にかはる 我身とおもへば

が残ります。

三木城跡の二の丸があった場所には、三木市歴史資料館があり、発掘された、二の丸、本丸の瓦や

そして、二の丸跡からは10数基の大きな甕が発掘されました。

中から数粒の炭化した麦も出てき、兵糧攻めにあい、飢餓状態の兵士達がこの大きな備前焼の貯蔵庫である甕を見つめ、触っていたかと思うと、何やら複雑な思いがしました。

歴史とは残酷ですね

しかし、時の流れというものは、もっと残酷です。

三木城跡を散策した後は、コレまた近くにある、教科書でも習った藤原惺窩誕生日の地へ参りました。

儒学者であり、草莽の学者として一生終えた藤原惺窩

元々は、公家の冷泉家生まれために、冷泉と名乗るのが普通ですが、藤原か中国式に藤と称しました。

江戸時代が比較的安定した時代だったというのも、藤原惺窩などの儒学者、朱子学があったからで、しかし礼学など体制維持と凝り固まった既存体制の安寧維持装置の学問としての側面も強く、私個人的には甚だ疑問がある分野なんです。

実りの秋ですね

藤原惺窩、冷泉家菩提寺に行って見ましたが、予想通り新しい本堂しかなく、古(いにしえ)を感じさせるものはありませんでした。

ただ、、寺裏に

間違いなく、500年以上経っているであろう小さな五輪塔があり、

長年の風雪により、顔の表情わからなくなった地蔵が秋晴れの下にありました。

近くには

藤原惺窩生誕の地があり、藤原惺窩像がありました。

移りゆく残酷なまでの時の流れ

しかし、終わりがあるから輝けるので時に抗おうとするから人間であって、、、

ただ変わらないのは、黄金色のたわわに実る稲穂と田園風景

きっと、別所長治も、たくさんの兵士も羽柴秀吉も藤原惺窩も・・・

 

 

 

 

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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。