今年の夏、函館に行って参りました。
一人で道南旅した四年前、以来二度目の函館でした。
夏にも関わらず、その週の週末は雨風冷たく、まるでイギリス・スコットランド思い出させるものがありました。
函館といえば?
日米和親条約により開港となりいち早く海外の文化、文明が取り入れられ今尚残る土地。そして、日本で最初のヨーロッパの築城技術取り入れられた五稜郭があります。
☝️は江戸時代末期の箱館奉行所玄関、そして再建された今は?
モノトーン加工しましたが、当時の礎石や資料もとに、箱館奉行所が再建され今に見ることが出来ます。
拝観料払い内部へ
江戸時代、北海道には無かった赤松を新潟県佐渡から植林した松が再建され、畳の薫りも新しい箱館奉行所内から見ることが出来ます。
きっと150年前には、榎本武揚や土方歳三も同じ光景を見つめたことでしょう・・・
そう
元々、北海道、当時は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ道南に松前藩のみがあり、後の広大な土地はアイヌの人々が先住民として住んでいました。
しかし1800年代初頭からの欧米列強の圧力から幕府直轄地などを設け、ロシアの南下と圧力に対する動きを強めて行きました。
そう、箱館(函館と表記されるのは明治2年から)にも箱館奉行所置かれて徳川幕府の北方最前線司令部の場所となります。当時は函館山中腹に築かれましたが、余りにも視界良好で港からの砲撃にはひとたまりも無いから、築城されたのが五稜郭なんです。
銃撃戦時に、死角をなくす為に、ヨーロッパ古来よりの五角形の土塁の上に築かれた五稜郭でしたが、冬には土が凍り春には溶けて土塁崩れるために、緻密なる切込接で石垣で築かれました。
ちなみに、五稜郭の石垣は函館山の立待岬などの安山岩が使用されています。
岡山から来た石工の棟梁が石の切り出しから組立全てを陣頭指揮しました。
古来よりの緻密正確なる素晴らしき日本の職人技術ここにあり!ですね
五稜郭に行かれたら、往時の石垣が見られますが、マニアック視点💡
石垣天端に跳出が見えますでしょ?
これは下から石垣登ってきた敵が石垣上部から侵入出来ない施しされていて、極めて珍しい作りなんです。
熊本県人吉城に少し見られるぐらいなんです
そして築城された五稜郭は幕末の薩摩・長州中心とした新政府軍が東北諸藩の奥羽列藩同盟を破り、北上していく中、新政府軍に対抗する榎本武揚中心とした旧徳川幕府の一部の軍勢に、かの
土方歳三も
陸軍、当時の歩兵ですね、戦の最前線をまかされ蝦夷共和国内で、実際に数々の戦経験したとして重きをなします。
忘れてはいけないのが、多くのフランス軍人が蝦夷共和国内で一員として新政府軍と戦っていたこと。
しかし物資や兵数圧倒的優位な新政府軍はとうとう、榎本武揚総裁の蝦夷共和国を明治二年春、攻め落とします。
武州多摩より京の都に上り新撰組副長として血の嵐の中を生き抜いた土方歳三も明治二年五月十一日、箱館一本木関門で新政府軍の球を腹部に受けて亡くなります。
新政府軍への降伏を頑強に撥ね付ける歳三、降伏を考える部下に殺された説もあり、今尚その亡骸は定かではありません。
ただこの箱館の地、泉下に武士(もののふ)として亡くなった歳三が眠っているのは確かで、そのような事を考え、函館の街を歩いていると感慨深いものがありました。
函館
また訪れたい街です。