日本がまだ、「倭」と呼ばれていた1500年以上前、3世紀頃 応神天皇の御代
応神天皇は裁縫や機織の技術を我国に広めるべく、呉国(中国南方部)に阿知使主(あちのおみ)と息子の都加使主(つかのおみ)を遣わしました。
数年の後、呉国より機織と裁縫の技術持った
兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、漢織(あやはとり)の4人が渡来してきます。
その時、応神天皇は崩御され仁徳天皇の御代になっていました。
呉織と漢織の2人は現在の兵庫県西宮から猪名川を上り、池田市に着き、この地より全国に向けて機織の技術や裁縫技術を広めます。
そして漢織は亡くなるも、その徳と業績を偲び神社が建立されました。
それが今に残る
伊居太神社(いけだ じんじゃ)
です。
先週の大廣寺、池田城跡のすぐ近くにあります。
中世には足利尊氏が荒廃した伊居太神社を再建しますが、1500年代終わりの織田信長と、謀反起こした荒木村重の有岡城の戦い、攻防時に辺り一帯焼き払われ、建物は灰燼にきしました。
それから20数年後、信長と荒木村重との戦による災い為に荒廃した近隣の沢山の寺社仏閣を嘆き悲しみ、率先して再建した人物がいます。
その人物とは?
豊臣秀頼
でした。
関ヶ原の戦い終わり4年経ち、慶長9年(1604年)
豊臣秀頼は伊居太神社の復興為に膨大なる資金投じます。伊居太神社に今に残る、社殿は414年前に豊臣秀頼が建立した歴史的、文化的にも大変貴重なものなんです。
しかし、年月経ち風雨に晒され破損部が目立つようになりました。
先日、大阪北部地震でも、かなり揺れたと宮司奥様、仰っておられましたが、、、
色々調べていくうちに、これだけ貴重な歴史的建造物に対し、文化庁なり地方自治体の補助金が全く無いことです。
ムダな道路や団体に国税をバラまくのに、日本人として守り後世に伝えていかなければならない、ホンモノの文化財にはお金を使わない国と、いや国民の意識には疑問があります。
414年前に豊臣秀頼が寄進した見事なまでの神輿が残されています。
阪急池田駅から徒歩約15分
都会の喧騒はなれ、鬱蒼と茂る鎮守の杜
伊居太神社(いけだ じんじゃ)
井戸木鴻樹プロが育った箕面GC
岡本綾子プロが研鑽積んだ池田CCから数分、通り道にあります。
いわは、この神社は日本の衣服作製発祥の地でもあります。
自治体からの補助金が難しいならば、日本のウェアメーカーなどからの援助頂き、風雨に晒される貴重な文化財を後世に伝えること出来ないものか、、、
タケシ、色々な思いに駆られながら帰路に着きました。
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