6月某日
羽田空港より大分空港
所用為に一泊2日で大分県へ参りました。
古来より大分県北部は豊前、中部南部は豊後と呼ばれていました。
戦国時代はかの、大友宗麟が臼杵を基点にし九州南部の島津家と北部に進出する大内家と拮抗し大勢力誇りました。
江戸時代になってからは、小藩が乱立し、それが良い意味で各場所の自立性、自主性に繋がり、今にも連綿と続いて、平松大分県知事が提唱し名産品や観光スポットのブランディング
「一村一品運動」
に繋がっています。
そう、当日三時間ほどの自由時間中で訪れたのが、大分空港より30分ほどところにある。
日出城跡(ひじ)
でした。豊臣秀吉の濃い縁者である木下家3万石の城下町として一度も徳川幕府から改易されることなく明治時代まで続きました。
今も初代藩主 木下延俊が築きし穴太積みの石垣が残ります。
城跡には学校があり、子供達の声が聞こえました。
そう、タイトルは
「豊臣秀頼と嫡子の国松は生きながらえて、、、」
でしたね
まず、これをご覧下さい
豊臣秀吉には秀頼しか実子おらず、親戚や養子もことごとく亡くなったり、廃家になったりします。
そして皆さまもご存知の通り、大坂の陣で秀頼は自決し、秀頼の嫡男 幼い国松は京都に逃げ隠れるもで幕府方の探索により見つかり、長宗我部盛親と共に、京都 六条河原で処刑された、、享年8歳
これが表の歴史
しかし、秀頼も嫡男 国松ま生きながらえて、、、薩摩、現在の鹿児島県の島津家に匿われて生きながらえたという真実味が高い話と、事実が残ります。
まず、大坂から薩摩まで逃げのびれたか?
ですが、夜間に紛れて船で、抜け穴が何道も掘られていたそうなので、可能でしょう。
関ヶ原の戦いでは西軍の主力武将の宇喜多秀家が薩摩まで逃げのびて、島津家庇護のもと数年隠れ住んでいましたし、薩摩という国の独特の鎖国的なよそ者入国阻むところ、島津家に対する領民の忠誠心とを考えると、日本ひろしと言えども薩摩しかない
そう、そして日出藩主 木下家19代目当主である木下崇俊(たかとし)さんに伝わる一子相伝の話があるんです。
秀頼と国松は大坂城内の抜け道から、船にて薩摩へ生き延びます。秀頼は2年ほどで亡くなりますが、遺児の国松は、、、木下家日出藩3万石初代藩主 木下延俊は男子が3人もいて、女子もいて跡取り心配全くないのに、四男として
延由(のぶよし)
ていうものを、養子に迎えました。
そして初代藩主延俊が亡くなる際に、重臣達を枕元に呼び、延由に3万石のうち、1万石を分割して分け与え立藩さすように遺言します。
その時、枕元にいた家老の長澤市之承は、3万石のうち、1万石も割愛されたら、藩の財政状況立ちいかなくなり大変な事になってしまう、、、からワザと大声で並びいる重臣たちに聞こえるように
5000石ですね!
と言ったとのこと。そして延由は5000石の旗本として明治時代まで無事残るのですが、その延由が初代となった旗本 木下家の菩提寺、長流寺の位牌には凄い事実がありました。
木下延由の位牌裏側にはなんと
豊臣延由 国松
の名前が彫られていました。
事実は小説よりも奇なり
信じるか信じないかは自分次第
点と線
歴史の面白さ、深さですよね
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