先週の、家康も讃えたもののふ、木村重成の墓所は大阪府八尾市にあるのですが、その近くに、約400年前の大坂夏の陣での名残を今に留める、史跡があります。
夏になれば、お祭りなどで見られる河内音頭発祥の地
常光寺
です。
大阪府八尾市にある常光寺は、古くに創建され足利義満や徳川家康から寺内の権利を守る約束手形が今に残ります。
徳川家との結びつきもあり、徳川家の家紋 三つ葉葵
が、目に入ります。
この地は中世より寺内町として発展していた場所なのですが、常光寺が戦乱に巻き込まれる危機があったのが403年前の大坂夏の陣
豊臣秀頼と徳川家康方、両軍合わせて数十万の戦が大坂城と南部でありました。
ちょうど、ここ常光寺門前でも藤堂高虎軍と長曾我部盛親軍が鉢合わせになり、戦が始まりました。
住職の奥様がいらっしゃったので、寺に伝わる色々な話をお聞きする事が出来ました・・・
常光寺は当時、周りを堀と川に守られていて、1枚目山門前も大きな蓮池があり守られていた為に、戦乱に巻き込まれ兵士達が雪崩れ込み焼かれることなかったとのことでした。
因みに、樹齢600年超える大銀杏の木が今も元気に生きていて、足利義満が寺に来た瞬間や、大坂夏の陣で両軍入り乱れ戦う姿を見て来たんだ、、、と思うと大銀杏の木の記憶を映写機に投影して見てみたい思いにかられました。
さて、藤堂高虎と長曾我部盛親軍
門前での戦、藤堂軍は沢山の士が亡くなられます。
藤堂高虎の血縁、または名だたる武将も。
そしてその方々の墓、71士の墓が400年手厚く供養され今に残ります。
そう。
そして、藤堂隊が討った長曾我部隊の士達の首。
首を並べて戦果確認した場所が
常光寺 裏側にある庭園に面した縁側です。
当時と同じ形で残りますが、首を並べた板は血のりがベッタリ付きました。
住職は供養として天井板として使用して今に残ります。
上に残るシミ跡は、長曾我部隊侍の生きざま、死に様、武士道跡です。
佐賀藩 葉隠れの
武士道とは死ぬことと見つけたり。
古来よりあるもんなんです。
常光寺は河内音頭発祥の地だけあり、かの河内家菊水丸さんの生前墓もあります。
皆さまの住まわれる街の片隅にも先人が生きた証、足跡、思い
を、今に残す史跡があると思います。
たまの休日、ふらっと立ち寄られてみるのは、いかがでしょうか?
大阪府八尾市
素晴らしい街でした。
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