皆さま、教科書で大坂冬の陣・夏の陣
習ったのを覚えておられますでしょうか?
大坂城の豊臣秀頼と江戸幕府開き老年の徳川家康が、徳川家の後世の憂いを無くすために豊臣家滅亡目指しての戦い。
数年前に大河ドラマにもなった真田幸村の活躍などもあり、圧倒的に有利な徳川幕府軍に一泡もふた泡も食わせ、大坂方の武士(もののふ)としての意地を見せつけた戦でもありました。
1615年5月
大坂城の堀が埋められ丸裸になったので、冬の陣時の様に籠城作戦出来なくなった大坂方は大坂南方面から攻め入る数十万の徳川方との戦になりました。
豊臣秀頼の信望厚く、真田幸村や後藤又兵衛といった歴戦の強者からも一目置かれていた若武者も、この時出陣します。その名は
木村重成
です。
現在の大阪府八尾市に数千人配下の兵進め、徳川家1番の武闘派 井伊直孝と、当時で180センチ超える大柄な武将であった藤堂高虎率いる軍と衝突します。
木村重成率いる、大坂方の兵も右翼に待ち構えた藤堂軍蹴散らすも、雲霞の如く増え続ける徳川方の兵に力尽きます。
井伊直孝配下の安藤重勝に、木村重成は討ち取られ20歳の人生を終えます。
討ち取られた重成の首は家康前に差し出されました。
前年に大坂冬の陣時の和睦の席で、家康と重成は一度会っていました。
和睦状に血判するのですが、家康の血が薄い!
と老獪な家康に臆することなく向かい、家康を感心させました。
また所作振る舞い、礼法も素晴らしいく、凛々しい若武者の木村重成が徳川方の中でも評判になったと言われています。
家康は首になった重成と対します。
そして、兜を取らせた時に、家康はハッとしました。
自分の最後を知っていた、重成は死に首実験された時を考えて、もののふらしく、兜にお香を焚いていたんです。
生き様と死に様、もののふの誇り
美学・・・
家康は敵ながらアッパレと若くして戦場に散った重成を褒め称えました。
重成を討ち取った、井伊直孝 配下の安藤重勝は重臣として彦根藩士として代々続きます。
そして重成が討ち取られてから150年あとの1764年、安藤重勝子孫が、先祖が討ち取った木村重成の墓を建てました。
討ち取った安藤重勝、礼儀と感謝尽くす、子孫も武士(もののふ)
負けはしたものの、豊臣秀頼に忠誠尽くし武士(もののふ)として潔く美しく戦場に散った重成
日本人として誇るべく武人であり生き様だと思います。
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