一月某日
京の都の冬の風は冷たい
盆地特有の凍てつく冷たさ
しかし、そんな寒さでも沢山の外国人観光客が押し寄せるのが
二条城
200数十年間使われなくても京都に於ける江戸幕府、徳川将軍家の威光ために、二条城はソコにあり続け、北側向かいにある幕府京都支店とも言うべき京都所司代と共に、絶対的なる徳川将軍家の威光、武威そのものでした。
しかし、教科書でも習った
大政奉還
簡単に言えば幕府が担った政治を朝廷にお返しします。てなもの、実情は薩摩などが考える徳川将軍家なくし幕府倒す流れから緩やかな諸侯合議の上で、その上に徳川家が君臨するソフトランディングを目指した結果だったのですが・・・
教科書には
の絵とともに、1867年10月14日に二条城二の丸御殿で15代将軍 徳川慶喜が、在京10万石以上の藩の重臣、約40藩50名を前に大政奉還をしたと・・・
まず有り得ないが事実は、武家の棟梁、将軍が日本全国の大名、藩のトップ出なく、家老と言えども陪臣たる、家臣の家臣と会ったという事実
しかし、事実であって事実でないのが、昨年発見された新発田藩 京都留守居役 寺田何某手紙でも確認されたのが、徳川慶喜は絵の様に各藩の重臣の前に出てきて、大政奉還をする、と宣言しなかった事実が明るみになりました。
老中 板倉勝静が出てきて、各藩の重臣に手紙渡し、意見聞いたそうですが、将軍に意見するなど家臣の家臣、陪臣ごときが恐れ多いと思ったのでしょうか?意見なく、しかし薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟や備前藩、宇和島藩、安芸藩の家老など6人が残り、将軍慶喜に御目通りし私見述べた・・・というのが歴史的事実なんです。
しかし、現在唯一残る、豪勢な武家の本丸御殿
戦前までは名古屋城本丸御殿も二条城に匹敵するぐらいの規模で残っていましたが、戦災で灰燼に帰し、今は完璧な昔と変わらぬ状態で残っているのは二条城のみ・・・
ベタな観光スポットかも知れませんが、一度も訪れたことない方には、是非ともおススメ致します!
▼スポともGC通信がアプリで読めます!
アプリのダウンロードは→こちら