日田から中津へ抜ける30キロにある耶馬渓地方
かの頼山陽が耶馬渓の美しさ讃えましたが、秋の紅葉時には、それは只々絶景
と、いう言葉しか出てこないほど美しくも荘厳な景色らしいです。
菊池寛の「恩讐の彼方に」のモデルとなった禅海和尚。危険な岩肌道歩く住民為に、30年の気の長くなりそうな年月かけて、無事に通れて日常生活送れるようにの思いからトンネルを掘りました。
禅海和尚が掘ったノミの跡残る
青の洞門
素晴らしい景色でした!
しかし、先の豪雨で山国川の堤防も決壊している所ありました。
清流 山国川を下っていくと大分県中津市に着きます。
地方のノンビリした城下町です。
数年前のNHK大河ドラマ
軍師官兵衛
では、中津城もクローズアップされましたが、黒田官兵衛が現在の中津城下の基本を造り、石垣なども黒田時代のもの残ります。
しかし、黒田官兵衛、黒田如水が中津領を豊臣秀吉から充てがわれ入領した時に、ちゃんとした領主が既にいたんです。
いえば、代々住人住んでいるのに地上げ屋が来て、悪いが別の場所に土地用意したから引っ越ししてくれ!
と、問答無用で来たようなもの。
それまでには黒田如水が入領の遡ること400年以上前に源頼朝により、代々 宇都宮家と家老の渡邊家が綿々とこの地を治めて来たんです。
宇都宮家にしたら、何処の馬の骨とも分からないのが来て、我が家に居座られたようなもの
宇都宮家家臣団による一斉の武装蜂起起きます。
これには如水と息子の長政も悩みました。
秀吉から充てがわれた領地を運営出来ず、反乱ばかり起こされているとなると、自分の首が飛びます。
一計案じます。
宇都宮家に対して、黒田家の嫡男たる長政に宇都宮家の息女が嫁ぎ縁組となす。と
先ずは宇都宮家当主鎮房、筆頭家老の渡邊右京進など多勢の家臣団が黒田家の中津城下に参りました。
そして婚礼に際しての中津城内で宴会となるはずでしたが、これは策略でした。
宇都宮鎮房はじめ、多勢の家臣団が黒田家の家臣団の騙し討ちに会い、命を落とします。
しかし、宇都宮家家臣団は血塗れになりながらも城を脱出し城下の合元寺に立て籠り戦います。
今なお、合元寺の本堂大黒柱には、宇都宮家家臣団の凄まじい武者ぶりを今に伝える刀傷の跡が数カ所残されます。
騙し討ちにあい無念のなか、命落とした宇都宮武士の悔しさの念からか、飛び散った血を消す為に壁土塗っても塗っても赤く染まる様になる為に、壁を以来赤く塗る様にしたとのこと。
鎮房の息女、鶴姫も何の罪も無く侍女とともに磔になりました。
戦国の世とはいえ、余りにも酷い話しではないでしょうか?
騙し討ちにあったときに、鎮房は黒田家血筋を絶やす!
と叫んだそうですが、実際に官兵衛如水の血筋は三代で絶えてしまいました。
長政も後々までこの件に関しては後悔していたようですが、中津城内には後に、宇都宮鎮房はじめ忙殺された家臣団を祀る城井神社が建てられ、歴代の中津藩主も領内の安寧なる治世を、ここで誓い祈る場所となりました。
さて、この黒田家が最初にいた中津ですが、黒田家が筑前52万石に移り、新しく細川家が小倉と中津の抱き合わせ領として30万石で入府します。
それまで幾つもの川筋に別れて氾濫起こしていた川の治水工事と街割りを本格化し、今の中津の街並みの基盤を、この細川家治世時代に作ります。
今でも数々の逸話残るのは、細川家治世の話で、大名として為政者としての覇道でなく王道たるものを感じずにはいられません。
細川家が1602年に中津に入府し、1632年に肥後熊本に移るまでの30年間は中津にとって文化、行政、土木治水、色々な意味で大事な時代だったと思います。
しかし、この時の当主、細川忠利だったと思うのですが、ヤバイくらいに律儀で筆まめな方だったらしいですよ
父は少し常軌逸したキレ方する細川忠興だったので、反面教師的な側面もあったと思いますが
加藤清正が創り上げた熊本城
加藤家改易となり、新しく細川家が肥後熊本54万石に
加藤家に心情寄せる民を他所に、細川忠利は初めて熊本城入城の際に、ナント加藤清正の位牌を持ち入城するんです。
そして清正眠る本妙寺の方向でしょうか、深く頭を下げるんですよね
これには肥後熊本の民百姓も心掴まれたと思いますよ
並大抵演出家でも出来ませんよ
やはり、歴史を掻い潜ってきた細川家当主の凄みが発揮された瞬間でした
続きは来週の土曜日に
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