大阪、北浜の証券街
高層ビルに瀟洒なマンション、証券会社の看板立ち並ぶ地域に、エアーポケットの様にポッカリと口開く空間があります。
そうです
かの有名な近代医学の祖とも呼ばれる緒方洪庵の
「適塾(てきじゅく)」
の跡が、幕末維新の混乱、明治時代の大火、大平洋戦争、阪神大震災数々の天災や開発を免れて今に残るんです。
適塾、、、備中足守藩士であった緒方洪庵は医術を西に東に長崎ではオランダ人医師ニーマンのもと当時としては最先端の医学を修め、この地に蘭学塾を開きます。
暫くすると、最先端の医学のみならず、化学、地政学などを学びたい若者が全国から集まり、日増しに緒方洪庵の名声は高まっていきます。
一階中庭には、解体修理されたものの往時の姿を偲ばせます。
先生である、緒方洪庵は非常に器の広い人間であったらしく、若い活発な塾生が全国から集まり、お腹も空いたりするので、解体腑分けと空腹満たす兼ね備える、から豚を解体して煮て食べるという荒い行動にも見て見ぬフリをします。
自由闊達でありましましたが、学問というものに対しては厳格でありました。
適塾二階に残る柱には?
血気盛んな若者がストレス発散かで、切り刻んだ沢山の刀傷残ります
しかし、同じ部屋にでの席順、場所は、成績良いものから同じ畳ではありますが、場所を選ぶ事が出来ました。
蛍雪
当然、昼も夜も明かりを求め時間過ぎるのを忘れて勉学に勤しんだ若者が集うた適塾ですから、明るい窓際が1番席だったと思われます。
1番席から見る、景色
当時の若者も余り変わらぬ景色を見たのでしょうね
自分が歩んだ道が道となり、暗中模索かめしれないが自ら明かりを灯し歩き続ける。
慶應義塾大学創始者 福沢諭吉
日本赤十字社創始者 佐野常民
日本赤十字社社長 ・外交官 花房義質
日本での衛生行政パイオニア 長与専斎
安政の大獄で亡くなった橋本左内
明治新政府、戊辰戦争では新政府の軍政司った大村益次郎
その他にも何十人、何百人の適塾に学んだ若者が故郷や新天地に散らばり、明治という時代の礎を築いていった人々となりました。
大都会に残る、幕末の若者たちの向学心に燃える生き様と熱気を未だに感じる事が出来る、適塾跡
ぜひ足を運びご覧頂ければと思います。