プライベート

太閤秀吉と醍醐の花見

今から約430年前の1598年4月20日に、自らの死を悟る豊臣秀吉は、正室、側室、家臣の大名の正室約1,300人を連れて、京都の伏見城から醍醐寺三宝院山麓まで、花見に出かけました。
しかし、約1,300名の花見参加者で男性は3名のみ・・・
豊臣秀吉と愛息の秀頼、そして前田利家
後は全員女性

秀吉自身も足を運び一大イベントに向けて準備を進めて参ります。
花見の責任者は前田玄以でした。
朝廷と武家の間を取り持つ京都所司代も務めた玄以ですから、ぬかりなく太閤秀吉起案のイベントを企画から細かく進めていったでしょうね
石田三成もそうですが、秀吉は事務方を上手く差配していますよね
五奉行なんて、まさにそう
各省庁事務次官制ですよ、現在の

そう、その秀吉最晩年の一大イベントである、醍醐の花見の醍醐寺に行って参りました。

佐賀県唐津市の法光寺には秀吉手植え、樹齢430年の八重桜もありますが、現在醍醐寺にもある、ソメイヨシノは幕末から明治にかけて、恣意的に生み出されたサクラで、秀吉などが愛でた桜はヤマザクラやエドヒガンなどなんですよね
吉野山の桜は有名ですが、8割9割がヤマザクラですしね
ちなみに、醍醐の花見を開催するにあたり、秀吉の急な発案で開催された、と言われていますが、700本のサクラが、この為に植樹されている訳ですよ
落葉時期に根回しして移植しないと枯れてしまいますからね
少なくとも1年前、もしかしたら目ぼしいサクラも選ぶので、2〜3年前には内々に醍醐の花見イベント開催を命令していたのでは?が、私の見立てです。
一大勢力築いた権力者は、無茶ぶりして、それが上手く進み滞りなく遂行された。を自己宣伝、プロパガンダ的にも利用するので、しっかり事務方、実務者が密かにイベントを進めてきた。というのが正解だと思います。

5ヶ月後に亡くなる秀吉、秀頼の姿も、この五重の塔は見てきたのですね
こんな逸話も残されております。
秀吉から盃を受ける順番ですが、先ずは正室の北政所
その次が側室の淀(秀頼母)、松の丸(京極家出身)ですが、二番手で揉めるんですね、淀は豊臣継ぐ秀頼の母を主張し、松の丸は、淀の生家である浅井家は、元々京極家の家臣筋である、が主張
現在のチカラと出自の主張、現在の政治や企業でもアルアルではないでしょうか?笑
しかし、そこで、前田利家の正室まつ、が上手く入ります。
「歳の順番でいえば、私が先です。太閤殿下、私に盃を」
で、上手く其の場を納めます。
山内一豊の妻の話は有名ですが、私個人的には、この話の方が痺れるんですよね
賢妻、私の家庭と同じです
あっ、怖妻も同意語で付け足させて頂きます。


日清都カントリークラブ

サクラ満開の醍醐寺
美しかったです。
醍醐寺を一人で散策した後は?
地元で評判のトンカツ屋へ
花より団子ならぬ
花より揚げもん

熟成豚かわむら
京都市山科区竹鼻西ノ口町57-1
075-595-0295
※営業時間、定休日等、要確認
自称トンカツマイスター
ここのトンカツは美味い😋
ここためだけに訪れる価値あり

私、脂っぼいのが苦手で
トンカツに3,000円も
その様な方はご遠慮ください(笑)
先ずは真ん中部位を塩と芥子でモグモグ
横に移り、モグモグ
ソースにチョンとつけて、白飯を少し
端の脂身はソースべっちょり付けて、白飯を頬張りフンガフンガ鼻鳴らして一心不乱に食す
コレが表千家の食し方

位階を極めた太閤秀吉ですが、現代には、こんな美味いもんがあるのを、あの世から、よだれ垂らして見ているかもしれませんよね
秀吉の後を次ぎ天下統一した家康はカヤ油で揚げた鯛(真鯛でなく甘鯛)にあたり亡くなったと言われています。
朝からでも、365日油もん続いても我が胃袋は常に笑顔で喜んで、ウェルカムでございますます。
お店出て眩しい春の陽射しがさし、手で眩しさ抑えながら思いましたね
秀吉、家康を私は凌駕した。と


ecc
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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。