4月初旬に伊豆半島最南端にある下田へ、ノンビリ電車旅をして参りました。
下田市の位置、ご確認お願い致します
伊東市より約60分ノンビリ電車旅
川奈ゴルフクラブ、川奈ホテルある川奈駅を通過し
左手に青く澄んだ空以上に青く広がる大海原と、大島などの伊豆諸島を見ながら
無人駅などもある、のどかな伊豆急線
最近は空の旅よりもノンビリ電車旅の方が個人的に気に入っており、当日も伊東駅コンビニでアイスコーヒーLサイズ購入し、ボーっと窓の外の景色見ながら・・・
の旅でした。
そして
終点下田駅に着きました。
歴史マニアのタケシが訪れるのは、ここ下田が幕末動乱期に幕府とアメリカやロシアとの条約締結においての重要地で、その足跡が残っているから・・・
しかし初めての右も左も分からない土地勘無いのを散策するのは楽しいですね
駅前の地図で自分のいる位置を確認して、Googleマップつかえば旅の風情失われますからね、自分の直感と分からなければ現地の人に尋ねる方式で✋️
先ず向かうは、歴史や現在も同じでしょうが、全ての出会いは偶然であり必然。
この歴史的場所、寺院へ🚶
宝福寺
明治時代迎える5年前の文久3年に土佐の藩主 山内容堂が嵐為に風止むのを待ち下田港に入港
同じくして幕臣旗本の勝海舟も同じ理由から下田港に
今で言う台風為に空の便が欠航し空港近くのホテルへ宿泊、てな感じですね
宝福寺を宿舎として容堂は泊まり、勝海舟は海に近い宿屋へ泊まっていました。
咸臨丸で自身がアメリカに渡り軍艦奉行並として幕府政策への影響持つ勝海舟を呼んで、酒の肴とでもしようかな?
ぐらいの感じだったと思います。
大酒飲みで酔っていない時が無かったと言われた山内容堂、自ら酔鯨と称していました。
今に残る、一室で山内容堂と勝海舟は対面します。
一滴も酒飲めない海舟に容堂は酒をススめ、飲み干します。
容堂は海舟が下戸と知っていて、手を叩いて喜びます。
そこで海舟は、貴藩(土佐藩)を脱藩して、今は私の門下生になっている坂本龍馬はじめ8人の罪を許して頂きたい。と切り出します
当日、武士の脱藩は重罪でした。
其の罪を許してくださいと願い出、容堂も、その8人が今後過激な行動にでない様に宜しくご指導お願いします。
と、なりました。
これにより坂本龍馬は暗殺されるまでの時間ではありますが、大手を振り歩き、活動出来る様になった、山内容堂と勝海舟の偶然の出会いから、、でありました。
そんな宝福寺を後にし次に向かうは?
宝福寺から歩いて15分ぐらいだったでしょうか?
了仙寺へ
教科書でも習った1854年3月31日
日米和親条約締結
有名なペリー提督🇺🇸ですね
これにより、伊豆下田と函館が開港され、実質的な長く続いた鎖国は終わりを告げるのですが、、
話それますが、この日米和親条約には片務的最恵国待遇が盛り込まれていました。
簡単に言えば、他の国と日本が条約を締結してアメリカとの条約には無いが有利なものあれば自動的に更新される。と言うものです
日露和親条約で長崎が開港されたので、アメリカにも自動的に門戸広がり、これが所謂、不平等条約と言われるものなんです
この日米和親条約締結し、ペリー艦隊が下田にやってまいります。
其の時の幕府側との今後の有り様を毎日話し合っていくのですが、其の時の場所が、ここ了仙寺
当時から変わらぬ形で残る本堂にはペリー艦隊一行が上陸し了仙寺に集結した時の絵が飾られています。
今は境内に
黒船ミュージアムが設立、建てられ幕末情勢や下田の歴史的位置付けが良く分かるようになっています。
了仙寺正門から海側に続く、その名もペリーロード
往時を偲ばせる建物残り
15分ほど歩くと?
ペリー提督上陸の碑がありました🇺🇸
当時、日本人はペリー提督率いる艦隊の船を「黒船」と呼んでいましたが、ペリー提督が乗船した旗艦のサスケハナ号見ても
実際に残されているサスケハナ号の古写真ですが、やはり黒い・・
コレはピッチと言われる原油、コールタールを蒸留した時に出来る物資で防腐剤や防水効果高く、船体全部に補装されたので黒く、黒船と呼ばれたんです
しかし、小さな和船しか知らなかった当時の日本人からしたら、脅威以外の何者でもなかったと思いますよ
来週は下田市で行きたかったもう2つの場所
では👋