毎年三菱電機レディースが開催される埼玉県飯能市の武蔵丘ゴルフコース
1000年前から関東武士が勢力競い合い、幾多もの戦があった場所でもあります。
秩父一円、戦国時代には小田原に本拠地構えた北条家の勢力範囲で豊臣秀吉が全国統一ために関東仕置きに腰を上げるや秀吉麾下の武将達(有名な戰は石田三成の忍城攻め)は北条家が関東各地に築いた出城を攻め、一つ一つ、関東各地に根付く北条方の勢力、兵員を削いでいきました。
秩父、飯能市辺りを所領していた中山家範(いえのり)も八王子城に手勢と共に駆けつけて籠城します。
関東一の堅固な城と謳われた八王子城も秀吉軍数万の前に敗れますが、其の武勇を惜しみ降伏したら命を助ける、、の前田利家の勧告にも、自分の主人ために最後まで戦い討ち死にしたのが、今の飯能市一帯を治めていた中山家範
この家範には二人の息子がいました。
長男は照守
次男は信吉
徳川家康は、武勇の誉れ高く二君に仕えるを良しとせず忠義の臣として戦さ場に散った家範の、この二人の息子を高禄、重臣として家来にします。
長男は3500石の旗本として秀忠、家光に仕え、江戸幕府初期の幕政安定に寄与しました。
そう、そして次男の中山信吉は・・・
皆さまご存知の徳川御三家
家康の九男 義直は尾張徳川家
十男 頼宣は紀州徳川家
十一男 頼房は水戸徳川家
をたて、将軍家跡取り、血脈守る為の装置として機能します。
そして、将軍家に次ぐ格式持つ御三家当主を補佐し、藩の運営や各種折衝の総責任者としてあったのが附家老です。
この御三家の附家老は家康が直々に任じたので、陪臣の身分越え想像出来ない発言力とチカラがありました。
だからこそ、家康、秀忠が信用出来る血筋の者しか任じられませんでした。
紀州徳川家には安藤、水野
尾張徳川家には竹腰、成瀬
そして水戸徳川家には中山信吉が25,000石の大名並みの高禄で水戸徳川家の柱として明治迎えるまで独自の政治体制を築き上げる根幹を築き上げました。
飯能市、武蔵丘ゴルフコース真裏にある智観寺
中世より秩父山脈一帯の木材の集積地として賑わった飯能ですが、飯能市郊外に中山家菩提寺の智観寺が今にあります。
家康が見抜いた、この中山家の義理堅い血筋は、天下の水戸徳川家の附家老として今の茨城県高萩市に陣屋・城を築いて居城とし所領している訳ですよ、200数十年の間
しかし、自分の家である中山家発祥の地である、ここ飯能の地を大事にして代々の当主の亡骸は智観寺に埋葬されているんですよ
原点と何が、誰が、何処が?起点となり今の自分が有るのかを大事にする此の中山家、、、
そうでない人間や日本人が多い中、日本人なら、侍・武家ならこうありたいですね
「士は己を知る者の為に死す」
史記にありますが、其れを観る様です。
三菱電機レディース開催される武蔵丘ゴルフコースと、其の一帯を治めた中山家と飯能と言う土地には此の様な歴史があり脈々と流れているんです。
手をあわせに智観寺を訪れてみるのも良いかもしれませんね