プライベート

蒙古・高麗の大軍が日本襲来⁉️

中学生時代の日本史の授業で習いましたのを、覚えておられますでしょうか?

「文永の役・弘安の役」

鎌倉時代の1274年・1281年モンゴル帝国(元)・高麗の大軍が2度に渡り日本(北九州地域)を襲来し対馬や壱岐、博多の住人虐殺されるも鎌倉幕府、主に西日本の御家人が勇敢に戦い、博多湾沖に停泊していた元と高麗軍船隻が嵐か荒波により沈没してしまい殆どの船隻を失い、日本から撤退していった、、、この嵐か荒波を日本では以後「神風」と呼ぶ様に

これが概要ですが、覚えておられますでしょうか?

この俗に言う蒙古襲来が日本史的にも世界史的にも非常に意味を持つんです

先ずは、モンゴル高原に起源を持つ遊牧民のモンゴル帝国

1271年に国名を「大元」とします。

そして国土は拡大膨張し続けて朝鮮半島支配していた高麗を降伏させ属国にします。

西にも勢力拡大し続けロシアやウクライナ付近をも併呑(へいどん)します。

1279年の元、モンゴル帝国支配地域ですが強大な帝国に、、

現在タルタルステーキなどの名称、はヨーロッパの人々が中央アジア遊牧民(タタール人)が肉を香味野菜と叩いて食べていたのに起源ありますし、血の融合、有色人種のヨーロッパ侵出など、キリスト教とイスラム教の争いとはまた違う意味でも西欧諸国の脳内に深く刻まれた時代でもあります。

そう、日本に襲来

元の5代皇帝クビライは大元皇帝として、日本に従属する様に使者を何度も送りますが時の鎌倉幕府執権北条時宗は無視しつ続け1274年の第一回目の対馬や博多への元・高麗軍襲来となります。

この文永の役では上陸した元・高麗軍が老男男女殺戮し、高麗軍は捕虜とした女性は掌に穴を開け縄通し逃げられない様にしました。

しかし、荒波か嵐により博多湾沖に停泊していた大船隻はほとんど沈没し文永の役終わります。

そして二度目の襲来に備え今の福岡県、山口県などの海岸線に石垣築き防衛線とし、鎌倉幕府も軍事総動員態勢に動きます。

元から降伏を勧める使者が日本に来ますが、時の執権、最高実力者の北条時宗は斬首に処します。

文永の役の時に焼かれた博多の箱崎宮

最前線で古来より武人に崇敬受ける箱崎宮は亀山上皇より宸筆(しんぴつ)を賜ります。

それが?

「敵国降伏」

と書かれていますが、武でなく徳を用いて相手を諭す、覇道より王道の意味あるものだと言われています。

二度目の来襲、今回は元・高麗軍は15万人とも言われる大軍と大船隻で来ますが、またしても荒波暴風雨で旗艦となる船が沈没し残った元・高麗軍も引き上げました。

「神風」

良くも悪くも日本に根付いた言葉ですが、箱崎宮の今に残る「敵国降伏」の宸筆

勝負に勝つ!

から、福岡に本拠地を置くスポーツ団体は必ず新年に参拝します。

実は二度の蒙古襲来ありましたが、以降何度も日本侵略を考え実際に兵動員したり造船も、、

しかし、高麗(朝鮮半島)などは、造船為に必要な木材を切り出すにも山から必要な木々が無くなり重税に民衆疲弊し、元帝国内でも皇帝身内からも諸王家の内乱起きたり、今のベトナムあたりのチャンパ王国の苛烈な元への抵抗により南進出来なかったり、内政にも不穏な動きあり、実際に三度目の大きな襲来はありませんでした。

しかし十数回超える従属服属の使者が日本に来たりで、常に緊張関係に・・・

そう、二度の襲来で大虐殺された対馬や壱岐、博多の住人の話が日本全国に伝播し、青森地方の子守唄には

「泣き止めねぇと、むくりこくり(蒙古・高句麗こうくり)の鬼が来る♪」

としても残りました。

外に目を向けてもロシアに於いては俗に言う

「タタールのくびき」

により服属した国として中世に向かいます・・・

歴史に

もし?

が、あるならば、色々と考えた箱崎宮散策でした。


ecc
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時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。