1868年1月11日。今は多くの住民、観光客、ビジネスマン、高層ビル、繁華街で賑わう神戸三宮界隈
当時は開港したといえ、まだ寂しい街並みでした。
そんな神戸三宮に三宮神社が今もあります。
そう、1868年1月11日、西国街道を東に向かう備前(岡山)藩約500人、そこに偶々居合わせたフランス海軍水兵数人が隊列を横切ろうとします。
教科書でも習った生麦事件同様、非礼無礼とされ、供割(ともわり)と言われた武士達にとれば許されない行為で備前藩士が槍で水兵達を突き負傷させ、それを契機に銃撃戦が始まりました。
まだ新政府軍と旧徳川幕府軍の戦いが今から始まろうとしている混迷の時に、新政府軍は強国フランス相手の勃発したこの事件に頭を悩まします。対処間違えれば列強諸国付け入る理由を与えてしまう事になります。そこでフランスと渡り合い出来るだけ穏便なる解決方法模索し実務担当したのが伊藤俊輔、後の伊藤博文でした。伊藤博文は初代兵庫県知事にも就任しましたが、この事件の落とし所として備前藩士、正確には備前藩家老日置家の家臣 瀧善三郎が備前藩、いや新政府の全ての重荷を背負って切腹で解決します。
昭和19年まで発刊されたフランス週間新聞イリュストラシオン、1968年5月30日号には、その時切腹した滝善三郎の挿絵が、、、
因みに、この滝善三郎5代孫の方が神戸市垂水区に在住されていて、善三郎か切腹時に生じた脇差と共に家名を守られています。
そう、この日本の侍である「切腹」はカナリ外国人には驚異と映るようで、農民や商人などの犯罪者は切腹出来ません、打首です。自らの命を絶つ切腹は誇りある死、侍にしか許されませんでした。
この滝善三郎の切腹光景みた外国人も恐怖を感じたと思いますが、同年に大阪の堺市でも起きた土佐藩士とフランス海軍水兵の争い、これはフランス海軍水兵11人が土佐藩士に斬られたりして亡くなります。三宮事件以上の大事件でしたが、フランスは賠償金と関係した土佐藩士全員の切腹を土佐藩、新政府に突き付けます。
折衝あり賠償金15万ドルと20人の切腹で折り合いつき、堺の妙国寺で切腹始まります。
しかし、脇差で自らの腹を切り、自分の腸を握り出しフランス海軍将兵達に目を見開き大声で叫びながら亡くなっていく土佐藩士達を見て、フランス海軍将兵達は恐怖と脅威感じ20人切腹予定がフランス海軍水兵11人が亡くなった同数となったところで、土佐藩側に打ち切りを提案し、事件は終わりました。
幕末、転び方によれば清国、香港やアジア諸国の欧米列強の植民地に成りかねない状況でした。しかし、良きものを固定概念に囚われず取り入れ、ギリギリの折衝と折衷する政治的行動、タフネゴシエーター、約束は死んでも守る日本人の美的・道徳意識の高さ、堂々と主張すべきはする誇りある武士達、明治の発展にはコノ士魂洋才があったからこそであり、今の日本、神戸三宮の繁栄があるのは、自らの命をかけて護らなければならないものを護られてきた先人方々の尊い命の上にあるものだと、、、
この誇りある国に生まれ本当に良かった、と心の底から感じた1日でした。