先週の京都御所から歩いて約30分
教科書でも有名な、かの寺院があります。その寺とは?
本能寺
そう、天下統一目指していた織田信長が家臣である明智光秀に京都の寄宿先である本能寺を攻められ、天下統一目の前にして亡くなり、、、
また信長と長男の信忠を討った光秀も、中国地方から信長の弔合戦の意味合い強く引き返した羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉に現在の京都と大阪の府境にある山崎で戦うも敗れ、逃げ落ち延びていく所を落武者狩りの名もない農民に討たれその命を失った。が定説で歴史の授業で学んだこと
まず、本能寺ですが法華宗の寺院で1415年に日隆上人により建立されます、本能寺の「能」という字は本能寺の正式な漢字ではなく
☝️が正式な漢字なんです。理由があり、建立時より度重なる火災で伽藍などを失っていた本能寺は、「ヒヒ」が去るように漢字を変えたんです。
常用漢字にあるのか無いのか、携帯で変換出来ないのでおそらく無いかと・・・
そして今現在ある本能寺と、1582年6月2日本能寺の変が起きた時の寺院場所が違うんです。
当時は四条西洞院に今の本能寺の何倍もの大きな堀や沢山の伽藍抱えた巨大な寺院でした。
今の場所へは1589年に秀吉の京都の街の区割りにより移転してきたので、信長が光秀に討たれた場所は、現在の京都市立堀川高等学校一帯にあたります。
しかし現在の本能寺にも沢山の信長の遺品や以前の本能寺跡から発掘された遺物が展示公開されています。
そして何よりも
織田信長の墓所と
本能寺の変で信長のまわりを固めた家臣団
その亡くなった方々の名前が記されています。
昭和3年に建立された立派な本堂
往時の本能寺もこの様な感じだったのかも知れませんね。
そして教科書には載っていない史実を・・・
実は信長の横には遠くアフリカ大陸より来た6尺(180㌢)超える黒人の
「彌介(やすけ)」
という小姓がいて、信長のボディーガード役をしていました。
初めて彌介を見た時に、信長は肌を擦らせて色を落とそうとした、、と言われていますが、おそらく周りは奇異な目で見たでしょうが、能力さえあれば出自に関係なく取り立てる信長ですから、彌介も必死になり信長の為に尽くしたと思われます。
でですね、先日この様な本を読み終えました。
文芸社文庫よりの
本能寺の変431年目の真実
明智憲三郎著
著者は明智光秀の子の子孫ななですが、今まであった
イエズス会陰謀説
光秀虐められ精神破綻した説
朝廷陰謀説
色々ありますが、現在伝わる信長の最後や本能寺内での詳細な案件、さきほど出の黒人小姓 彌介がイエズス会に詳細を報告した後に、ルイスフロイスの日本史や信長の右筆であった太田牛一の信長公記に記載される様になった事実や、羽柴秀吉と徳川家康の信長の先を行っていた根回しとしぶとさ
この時代のことに興味ある方ならば、あっという間に読破されると思います。
それぐらい面白いし、スジが通っています・・・
しかし、史実なんですが凄くないですか?信長の横には遠くアフリカ大陸から来た黒人がボディーガード役でいたって
あっ、あと皆様の教科書の信長の肖像がありますが、イエズス会 画家でセミナリオ教師のイタリア人のニコラオが、銀筆かでデッサン描いた写実的信長画が信長の子孫、織田家天童藩の三寶寺に伝わります。
その写真とも見間違える写実的な信長
信長は日本人で初めて地球が球体であると言う事を知り、ドイツ人フォベルが制作した地球儀を身の回りに置いていたとルイスフロイスの日本史にもあります。
神経細かく、せっかちで猜疑心深く、怒れば手のつけられない、延暦寺の僧数千人を殺戮し、荒木村重家臣や女子供600人を小屋などに閉じ込め焼き殺した残忍な信長も事実としてあります。
しかしその一方で古くからの慣習や身分、人種、宗教に囚われることなくドラスティックに戦い抜いた織田信長という人物には魅了されます。