函館、皆さま行かれたことありますでしょうか?
7月初旬2回目の函館でした。本州は茹だるような暑さでしたが、函館は曇り空に強い風、セーター着ていても寒さ感じる気候でした。
おそらく体感気温は10度あるか無いかぐらいだったと、、、
そう、それよりもイギリスやロシアの夏の空気感にソックリでした。
湿気少なく潮風香り、明らかに樹木も本州と違い、合理的でドライな空気感
そう、そして街並みが古くよりの港町ということもありますが、歴史感じる洋館が沢山街に残り、いまなお機能している所が「欧州」感じさせる所ですよね
元々、北海道は江戸時代まで蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、南の小さな街、松前に日本最北端の大名、松前氏が居城構えて、松前・江差・箱館(明治以前は箱館と表記)を直轄地として抑えていました。
蝦夷地には先住民族としてアイヌ民族が住んでいて、当時の蝦夷地は米が栽培出来なかったので、松前藩は昆布や、本州各地の畑の肥料とした魚、ニシンなどを独占的に販売流通して藩の主財源としていました。
その中では、アイヌ民族に対する圧政があり、度々アイヌ民族と後から蝦夷地に来た、和人と衝突がありました。
話戻します
歴史は動きます。
基本的に鎖国政策取っていた江戸幕府ですが、世界の潮流、帝国主義の流れ受けて日本近海に外国船見られ、開国要求受けるようになります。
当時の江戸幕府は清(今の中国)がアヘン戦争でイギリスにボコボコにされ、半植民地化されている情報も入っていたので、頑なに鎖国政策とるわけにもいかず、1854年ペリー2度目の来航により、下田と箱館の2港の開港決まり、日米和親条約が締結されました。
これにより、200数十年の鎖国政策は終わりを告げました。
そう、そして外国船が入るようになってなった箱館ですが、、、当時の様子と絵は伝えています。
ペリー一向の画家が描いた箱館の街並み
箱館で一番大きな寺
そして、箱館の桶屋の職人の器用さと勤勉な態度を見て、、、
「日本人の新技術に対する考え方、器用さ勤勉さは群を抜いている。間違いなく近い将来我が国の手強い相手となるであろう。」
とペリー一向は記しています。
そう、そしてペリーが箱館に来航した時は、日本で最初のミュージカルがアメリカ海兵隊員により演じられたのは、余りしられていない歴史的事実です。
アメリカ軍艦上で演じられたのですが、当時のプログラムも残り、シッカリしたミュージカルだったのが見て取れます。
よく見ると、小学生時に習った「おお、スザンナ」や「草競馬」で有名な作曲家フォスターの名前もみえます。
招待された松前藩士一行は、白人が黒人に扮して演じられるミンストレルショーに歓喜の声をあげて喜んだと記録に残るあります。
手に持っている楽器はバンジョーでしょうね、おそらく。
そう、こうした箱館の開港から函館の歴史は始まって参ります。
来週からも暫く、函館特集で参りたいと思います。