兵庫県三田市、近隣では毎年
マイナビABCチャンピオンシップ
スタジオアリス
宮里藍 サントリーレディース
ECC レディース
マルハン シニア
など沢山のトーナメントが開催される場所です。
近年は大阪までJR一本で約40分で通勤出来るため、ベッドタウンとして見事な住宅地が広がり、さも新しきベッドタウンの様相を呈しています。
しかし、私から見れば町が発展し新しい建物が増えるのは嬉しいのですが、歴史的に由緒正しき三田の古き良き趣きが消えていくのは一抹の寂しさも感じます、、、
三田市は殆ど面影ありませんが、明治時代迎えるまで、九鬼藩36000石の城下町でした。
小藩ために、皆様が想像するような高い石垣や櫓、天守閣は、ありませんでした。
有馬高校ある所に藩の建物、三田小学校ある所に御殿ありましたが、
元々は現在の三重県尾鷲市に起こった豪族で、織田信長麾下では、九鬼水軍として名を馳せ、毛利水軍とのいくさも経験しています。
関ヶ原の戦いときには、真田家などの例を見るまでもなく、どちらが滅んでも家が残るような方針とり、戦国の世とはいえ儚い辛い結末も九鬼家ではありました。
しかし、徳川幕府治世になっても、九鬼藩は残るものの、海族、水上での戦や物流担い大名までのしあがった、九鬼家は、家督争いもあり、兵庫県綾部と三田に分割され、明治時代まで残ります。
36000石持ち三田に来た初代藩主は、九鬼久隆
それ以来、九鬼家が菩提寺として、三田藩の重臣なども菩提寺としたのが、ベッドタウン化して歴史的建造物皆無となった三田市の中、今に残る
心月院
です。
心月院の領域、寺院内だけ白壁と江戸時代からそのまま奇跡的に残る伽藍と竹林で、タイムトリップした様な感じに思えます。
天正13年(1585年)の山門は豊臣秀吉が愛した、有馬温泉の秀吉の御殿にあった門を移築した貴重なものです。
この柱や破風が秀吉はじめ、沢山の武将を見つめてきた事実を創造するとき、時が止まります。
山門くぐると、宝暦三年(1753年)に建立された伽藍、総門と正面に九鬼家の家紋である九曜紋が訪れるもの威圧します。
代々の九鬼家の大名ならではの巨大な墓石も20年前の阪神大震災逃れ、残ります。
少し左手の山道を歩くと?
男爵 九鬼隆一の墓があります。
この九鬼家、明治維新迎えると先見の明があったのでしょう、、、
志摩商会という会社作り、山超えて神戸の生田川沿いの開発やら住宅宅地開発、貿易などで巨万の富を得ます。
廣野GCは、元々全て最期の藩主 九鬼隆義の息子である子爵 九鬼隆輝の私有地でした。
隆輝自信が垂水GCメンバーでゴルフをしていたので、土地買収交渉は比較的スムースに行ったといいます。
そして、ここ心月院には、皆さまもご存知あろう、有名な夫婦が眠っておられます、、、
その方とは、宮里藍プロのアマチュア時代の
play fast
のポスター今でもたまに、みるときありますが、そうplay fast生みの親の方が眠っておられるんです。
続きは、また来週土曜に!
タケシでした。