大阪府池田市
日本の電鉄王 阪急東宝グループ築いた小林一三翁が居を構えた街
日清食品創始者の安藤百福さんが居を構え、長年住んだ街
伊丹空港近くの大阪のベッドタウンとしてある池田市ですが、古く鎌倉、室町時代より沢山の武将が要所地であった池田を巡り数多くの争いが起きたところでもあります。
そして1300年代終わりから1500年代終わりの約300年の間、池田の街、北摂を治めたのが
池田氏です。
今も阪急池田駅より徒歩約15分所に、公園として復元され解放されている、池田城跡公園があります。
近代の城と違い、高い石垣や天守閣、櫓、大規模な縄張りは中世の城には無く、天然の谷や崖、山からの勾配をりようして土塁築く城でした。
発掘により大手門復元され、左には500年前の土塁が残ります。
池田城北側は今でも切り立った川が流れ、天然の要害になって行く手を遮ります。
敷地内には池田氏の屋敷跡、建物基礎部分となる礎石や枯山水庭園も発掘されており、池田氏の栄華が偲ばれます。
室町時代は足利将軍家、細川家に従い北摂地域を治めますが、由緒ある池田氏に暗雲立ち込めてくるのが織田信長台頭して勢力伸ばしてきた1570年代でした。
信長軍に池田城攻められ降伏し、以降は高槻と茨木の高山右近、中川清秀とともに引き続き北摂治めます。
しかし、池田家内の権力争いに家臣である荒木村重が主君である池田勝正を追い出し池田知正を擁立し、信長に気に入られ、主家の池田知正を配下にし乗っ取ります。
龍造寺家と鍋島家に近いものがあります、、、
そして、部下であった荒木村重の家臣となってしまった池田知正、、、
現在残る肖像画見ても、儚さと無念さを感じます。
池田城北側には、代々の池田城主池田氏菩提寺の
大廣寺(だいこうじ)
が、今に残ります。
荒木村重が、織田信長に反旗翻し、池田知正も従ったために信長軍に全ての建物や墓石等も破壊されてしまいます。
しかし、大廣寺は池田城に万が一あった時の詰め城的な意味合いもあったのでしょうか?
城の様な緻密な縄張り見て取れます。
あれだけ数百年間栄華を誇った、戦国武将池田氏は徳川時代迎えて、表舞台から消えて行きます、、、
帰農した者や、旗本に取り立てられるも廃家になったり悲運の運命辿ります。
そして悲しいことに何代もの当主の菩提寺にもかかわらず、池田知正、三九郎など最後の池田城城主の墓しか地表には残されていません。
消えかかった墓石には最後の池田城城主池田知正の
前備州一相乗寬大禅定門
の法名が微かに400年以上の風雨にさらされながら微かに読めます。
それ以前の墓石はおそらく、荒木村重が有岡城を築く時に城の石垣として使われて無くなったとおもいます。
家臣であった者の家臣になり、またその者の築城ために、自らの先祖の墓を石垣として提供しなければならなかった無念
歴史の流れと儚さ無情を痛いほど感じます。
夏草や
兵どもが 夢のあと
大廣寺 裏庭の庭にも夏草生い茂っていました。
▼スポともGC通信がアプリで読めます!
アプリのダウンロードは→こちら