「内助の功」
という言葉、夫の働きを妻が助けて功績をあげること。日本独自の慣用句ですが、この語源となったのが、豊臣秀吉部下として一介の侍から土佐20万石の大名まで立身出世成し遂げた山内一豊妻の千代(見性院)
秀吉が信長麾下の武将として長浜城城主とした時に、山内一豊の名前が初めて文献に見えます。「やまのうちかずとよ」と呼ばれますが、「やまうちかつとよ」が正式な呼び名です。妻である、千代(正式名称いまだ未詳)は夫である一豊が武人として立派な馬を購入する、したいものの、ある馬市で迷っていると持参金の大判10両という大金を出して、鏡栗毛という名馬を購入し、織田信長麾下の武将馬揃え時に、一際目立つ一豊の馬、鏡栗毛と夫の為に持参金、私財投げ打ち購入した千代の名が知られます。
順調に出世していく山内一豊、、、
秀吉晩年には遠州掛川5万1000石の大名となります。現在の静岡県掛川市、そう今年のヤマハ レディース時に宿泊滞在した街ですが、ちょうど桜が満開で夜桜見物にタケシ参りました。
城跡は模擬天守閣が再建されています。
貴重なのは二条城や高知城などにしか現存しない城御殿が現存している事。藩政や行政庁が置かれて執務が行われた貴重な二の丸御殿が江戸時代より残ります。現在の掛川市の町割は山内一豊が1590年に掛川城に来てから始まったもの
関ヶ原の戦い前には、石田三成方につくか徳川家康方につくか、、、で全国の武将が右往左往していた中、山内一豊は進んで東海道の重要地であり自分の所領地の掛川を家康に差し出します。黒田長政、池田輝政、山内一豊などは関ヶ原の戦いでの家康方勝利に多大なる貢献したということで、戦後破格の石高アップに繋がります。
そんな中でも、石田三成方から山内一豊に自軍への誘いの手紙を封を切らずに、そのまま家康に差し出し家康の信頼勝ち取る行為なども妻の千代からの指示だったそうです。
「内助の功」
裸一貫から土佐一国の大大名にまでのし上がった山内一豊。しかし妻である千代の共同経営者とも言うべき才と行動力なければ、果たして一豊もあそこまで出世したかどうか、、、
掛川城跡の夜桜、美しかったです。
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