実際に行って頂ければ非常に分かり易いのですが、光明寺は城の様な堅固な造りになっています。
石垣もそうですが、高麗門の堂々たる威圧感溢れる雰囲気は武家のそれです。
確かに、もし万が一の時には都を守る防御ラインの第一線になる事を予想されて作られました。
その時が来たのが文久二年、1862年の幕末です、時の帝は孝明天皇
将軍は14代 徳川家茂
京の都に跋扈する殺戮、暗殺、天誅という名のテロリズム
安政の大獄も権力側の圧ならば、勤皇の志士と呼ばれた者達による、暗殺、天誅もテロリズム
この構図は現代も、世界中どの国でもおなじですね、体制側と異を唱える者達の闘争
時の体制側、幕府の命により京都守護職として朝廷、玉を護り京の街に平和と秩序を取り戻すために遠き会津の地より赴任して来た
会津藩主 松平容保と家臣約1000人
156年前の会津藩士達も上と似たような光景を目にしたと思います。
京都の街の秩序を守り、穏やかさを取り戻しつつあったのですが、どうしても人手が足りない、それで公の京都守護職お預かりとして結成されたのが、皆さまご存知の新撰組なんです。
ここでは勤皇派、佐幕派といった往時の立場の違いについて論じる気はありません
しかし、それ以来故郷会津に家族残し、一途に都の安寧を語るだけでなく、火中の栗を拾う形で松平容保はじめ多くの会津藩士が命かけて守りました、しかし時代、時の流れは変わっていきます。
王政復古、鳥羽伏見の戦いで幕軍は都を後にし東に向かいます。
光明寺には、故郷遠く離れたこの地で亡くなられた352名の会津藩士が眠っています。
毎年6月には今もなお、会津松平家当主も参列し供養が執り行われています
名簿の名前には福島県会津地方に所縁ある方、先祖に会津藩士持たれる方々の名前があります。
その中には、プロ野球のセリーグ会長務められた川島廣守さん、先日亡くなられた自民党〜民主党衆議院議員 渡部恒三さん、会津藩士の祖父持った副総理務められた伊東 正義さんの名前も見ることが出来ます。
安らかに眠られる352名の会津藩士。立場の違いあれど国を思い、武門の誇りと、家族を思う心、これからの日本の行く末を思ったのには違いありません。
私はただただ、誇り高き泉下の方々に手を合わすしかありませんでした。
帰りの階段でメガネをかけた白人のカップルとすれ違いました。
平和な世の中を生きることの感謝と、ありがさを改めて感じました。
金戒 光明寺
難しいことなしに、ユックリ散策されて下さい、きっと何かを見つけられると思います。
比叡からの風が冷たくなっていました。
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