今から約150年前、江戸幕府第14代将軍に紀州より
徳川家茂
がなりました。
時は京都の朝廷と江戸の武家政治のバランスが揺るぎ始め
公武合体
朝廷と武家政治の幕府の挙国一致体制で欧米列強から日本国が如何にあるべきか?
「國」という概念が今にも通ずる同じ意味合いで認識され始めた瞬間かもしれません
時の朝廷、天皇は孝明天皇でした
妹君でらっしゃる皇女 和宮は許嫁がいましたが、政略結婚の意味合い、日本国の為に、からも江戸に下向し第14代将軍徳川家茂と結婚します。
当時など恋愛結婚なんて稀なもので、殆どが見知らぬ者同士が初めて会い、、、でした
しかし
元来病弱であった家茂は病に伏し、幕府と長州が戦を始めようとする中、大坂で亡くなります。
江戸に残された和宮は若くして未亡人になります
京都より下向し家茂と結婚するも、先立たれ不安と寂しさの中での江戸での時間だったと思います。
和宮は明治10年に亡くなりますが、夫である徳川家茂とともに、増上寺に埋葬されました
今年の春
余り知られていませんが、徳川家茂と和宮の逸話あります。
昭和34年に学術研究と墓地をシッカリとした形で保管しなければからで、増上寺にある和宮の墓が各界の研究者参加のもと開けられました
すると中から、ガラス板に烏帽子姿の凛々しい若武者姿の写真が出てきました。
和宮の墓から出てきたのは、大坂で写真店開いていた内田九一に撮らせたであろうと推測される、徳川家茂の写真でした。
その場にいた関係者からは驚きの声が上がったと言います。
しかし100年近くの歳月から急に日光に当たり、烏帽子姿の凛々しい若武者の姿は消えてしまい、永遠に戻る事はありませんでした・・・
始めは政略結婚の意味合い強かった徳川家茂と和宮でしたが、仲睦まじい夫婦であったと言います。
今でも家茂と和宮の墓は仲良く隣同士、永遠の眠りについています
桜満開の増上寺を散策しながらのタケシでした。
▼スポともGC通信がアプリで読めます!
アプリのダウンロードは→こちら