先週の土曜日の続きを
豊前中津10万石を治めるようになった奥平家は、奥三河の出で武田、徳川などの勢力に挟まれ生き抜いてきた大名です。
長篠城主時に、500の兵で籠城し武田勝頼軍を足留めして、長篠の戦いに持ち込み、歴史的な転換の戦に陰ながら貢献しました。
信長、家康も労いどころか前例ないぐらいの厚遇を処します。
奥平信昌は晩年には京都所司代など重職勤めたり、息子の忠明は松平忠明として家康外孫として初期の幕閣で要職を、大坂の陣あとの大坂の町復興担当し、姫路藩主として西国探題の任も任されます。
そして極め付けが、二代将軍秀忠の遺言で三代将軍に家光がなる時には、彦根藩主 井伊直孝と共に後見人となるんです。
この奥平松平家の祖、松平忠明の流れは幕末まで忍藩10万石として残るのですが、初期の奥平家の幕閣に於ける重職要職から、江戸幕府安定期迎えると、どこかしら閑職というか、重要なポストにもつかずに時代は流れます。
しかし戦後に、奥平昌信さんにより復興された現在見る中津城の姿は美しく、各階に展示されている奥平家伝来の貴重な展示物は一見の価値ありです!
左の「大」の字が刺繍されている陣羽織は武田信玄より渡されたもの、その他にも歴代藩主の使用した本物の鎧甲冑なども
そして燦然と輝く、横綱 双葉山を庇護したのは伯爵 奥平家でした。
元々、力士は各大名のお抱えが多く、力士同士の取り組みは、イコール大名同士の戦いにも通ずる所のものでした。
姫路藩主の酒井家などは多くの力士を抱えていました。
双葉山は出身が大分県中津市、中津藩領だったので化粧回しなどにも、奥平家家紋が刺繍されています。
今で言う、メインスポンサーだったんです。
そして1717年より1867年まで奥平家が治めるのですが、石高は僅か10万石ですが学問が盛んな藩でもありました。
特に薩摩藩主島津重豪の次男が奥平家養子として入り、奥平昌高となり中津藩主になりました。
養父の奥平昌男と島津重豪も蘭学仲間だった縁からですが、昌高も成長するにつれ、異文化と実学、最先端の学問に非常に興味を持ち、世人からは蘭癖大名と言われました。
オランダ商館長とも交遊持ち、フレデリック ヘンドリックのオランダ名を持つほどでした。
中津辞書と言われるオランダ語和訳作成したり、1826年には実父の島津重豪と昌高2人はシーボルトと会い交友深めます。
藩のトップがこうですと、末端までに水は浸透しやすいですね
来週の土曜は、幕末から明治に花開いた一地方の叡智の行く末をお届けさせて頂きます。
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