プライベート

豊臣秀次 無念の思いと悲しみの地

 

豊臣秀吉が天下統一し、安定した豊臣政権を維持し継続させていく上で大事なのが、後継でした。

実子いても早世したりしていたので、実姉の子を養子にして実質的な秀吉の後継者に指名し、歩んできました。

それが

豊臣秀次

です。

太閤秀吉と関白秀次、最初の内は上手く行っていましたが、綻び始めたのが、秀吉に後々の秀頼が生まれた時から・・・

いつの時代、何処の国でも同じですが、我が子ほど可愛いものはない。

しかも成り上がりの秀吉はコンプレックスからか名家の女性に目がない(笑)

浅井長政の子で、母は織田信長妹の市の子供、淀殿が産んだ子供とくれば、自分が築いた豊臣政権を実子に継承さすたい!

と考えるのも悲しいかな必然だったのかもしれません・・・

関白秀次は、次第に秀吉と距離離れ、おそらく難題ふっかけられて高野山へ追放されます。

しかし、秀吉は、それでは許しませんでした。

秀次と秀次の血を受け継ぐものあれば、後々の秀頼を邪魔する者になるやもしれぬ、と考えたのか、先ずは高野山にて秀次を切腹自害させます。

享年28歳でした

そして、太閤秀吉の残虐なのはここから始まります。

秀次の妻妾、乳飲み子含め39人を河原町西側の河原に連れ出して、首を切り全員殺します。

その光景を見ていた、京の街の人々は涙と信じられない光景に放心状態になったと公家の日記にあります。

幼き子は、もう少しで父上に会えますから、極楽浄土で再会出来ますからと恐怖与えず、母は最後まで抱きしめあやしたと思います・・・

全員命を落とし、そこには塚が作られただけ、しばらく放置されて歴史の片隅に追いやられていく、、、そんな時、約20年後になりますが、豪商 角倉了以が高瀬川整備し、今で言う地域開発する時に、20年前の悲しい出来事と、その塚を発見します。

そして角倉了以は秀次と39人の菩提を弔うために寺を創建しました。

それが、今ま京都、繁華街ど真ん中に残る

瑞泉寺

です。

瑞泉寺には秀次はじめの辞世の句などが残されています。

そして、何より瑞泉寺入り右手には、河原で処刑された39人の罪無き方々、処刑される時に、極楽浄土へ旅立つ事が出来るようにと、仏様が置かれていました。

424年前の悲しい惨たらしい光景を全て見てきた、仏様の像を今に見る事が出来ます。

その横には秀次墓所もあります。

京都の繁華街ど真ん中にある、瑞泉寺と悲しい話

タケシ、目をつぶって、ただただ手を合わせることしか出来ませんでした。

 

 

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ABOUT ME
時空少年タケシ
こんにちは、時空少年タケシです✌️ ゴルフトーナメント関係の仕事をしています。 幼少時より、根っからの歴史好きで、各地各地に行くたびに、神社仏閣、城は勿論、合戦場、遺跡などにも足を運びます。 マニアックでなければ、意味がない! これをモットーに100パーセント自己満足の記事をお届けさせて頂きたいと思います。